2019年06月29日
『水の古道』阿罩霧[土/川]−2
【写真説明】左写真は、台中市霧峰区区役所脇を走る民生路東側に沿う、嘗ての台湾五大家族の一つ、霧峰林家邸宅群の一部、一般に公開されている「霧峰林家宮保第園区」。中央写真は、その邸宅群の北側、同じ民生路路上にある、大正3年(1914年)設立の台湾基督長老教会霧峰教会の側面、既に百年を経た日本時代建築時の優雅なデザインがそのまま残っているが、古蹟指定にはなっていないようだ。偶々協会のトイレを拝借した際、気付いた。右写真は、同邸宅群南側に位置する霧峰区区役所脇、これも民生路路上の下水道マンホールに「阿罩霧」の文字を見付けた。これが阿罩霧山に続く「阿罩霧」との二度目の遭遇になった。暫くはこの下水道が阿罩霧圳の一部と勘違いしていた。
筆者の手元にある二万五千分之一地図帳『台灣全覧』で霧峰市街地を眺めると随分大都会に見えるが、実際は省道3号線の東側に狭い車道を挟み込んだ小さな町である。そんな小さな町の行政中心たる霧峰区区公所(区役所)横を走る民生路沿いに閩南式大邸宅群がありその部分は民生路が殊更狭くなっている。霧峰区を代表する国定古蹟であり観光スポットなのだが、到る場所で改装と思しき作業現場を晒している。1999年の921大震災の倒壊から修復が終わっていないことを後で知った。今は閩南式古住居に然程興味の湧かない筆者は、現在一般開放されている部分だけを入場料二百五十元(高い!)をきちんと払いさらりと見て出て来た。
ネット上には日本語でもこの大邸宅の由来を説明したサイトは多いが、歴史の古さと広大な邸宅面積に応じ逆にバッサリとした紹介を見付けるのに難があることに気付いた。それで今後台中方面の観光を計画していらっしゃる本ブログの読者の為に、この大邸宅群「霧峰林家宅園」とは何ぞ也?のダイジェスト版を供し、阿罩霧圳二回目の記事を閉じることにする:
霧峰林家は、日本時代、台湾五大家族(日本風に呼べば豪商?)の一つ、他、基隆顔家、板橋林家、鹿港辜家、高雄陳家である。初代の渡台は1746年(乾隆11年)、福建漳州からである。一族の中で日本人に最も良く知られた人物は、「台湾議会の父」と呼ばれる林献堂(1881〜1956)で、貴族院議員にも叙せられ東京久我山で亡くなった。
霧峰林家宅園は、林家宅第(たくだい)と呼ばれる邸宅群と莱園(らいえん:通称林家花園)から構成されている。林家宅第は下厝系と頂厝系の二家系統に分かれ、前者のみ霧峰林家宮保第園区として一般に公開されている。二百五十元の支払いが必要なのはここである。後者は白壁で統一された和洋折衷の邸宅が美しい頤圃(いほ)を含む。塀越しの鑑賞でも当時の設計・施工者の業(わざ)が偲ばれる。林献堂が私塾を設立した莱園は明台高級中学校内にあるのだが、興味が湧かず遠慮した。(続く)
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