2019年06月01日
『水の古道』隘寮[土/川]−2
【写真説明】左写真は水門橋から隘寮圳導水口側を望んだ。水門橋は戦後の架橋であるが、同写真中央に写る小橋は日本時代の架橋。日本時代に撮影された写真と比較すると、当時と変わらぬ姿で水を落とし続けているのが判る。中央写真は、左写真小橋右側に立つ屏東水利会に依る隘寮圳の由来を記した案内板。その由来はそのまま本文記事に翻訳した。その由来の中には日本、日本人、日本年号等日本時代に関わる記載は一切無し。右写真は水門橋から導水路下流側を望んだ。水車は観光用のアトラクションと思う。
以下、今回掲載した案内板に記載された由来の翻案である:
現在水門村内に設営されている「水利休憩公園」内の導水路は通称「碰坑」と呼ばれている。「碰」(日本語読みは「ホウ」)はぶつかる、出会うの両方の意味があるが、水門村の場合、その両方の意味が掛けられ、隘寮渓から引き込まれた水がトンネルを経由し轟轟と導水路に流れ落ちる様を形容したものだ。
隘寮圳の起源は清朝康熙30年(1691年)迄遡る。当時隘寮圳の灌漑対象の中心地は「火焼庄」(現在の長治郷長興村付近)だった為、「火焼圳」と呼ばれていた。
日本時代、大正10年(1921年)、隘寮渓沿いに塩埔堤防を建設、同時に隘寮渓からの取水、灌漑システムの整備・拡充を実施、沿線の農田水利を大いに助することになった。この時、火焼圳から隘寮圳へと改称した。
昭和10年(1935年)になると、隘寮渓の流れが北側に移動、この為、塩埔堤防からの取水が日に日に困難を極めた為、現在の水門村に導水口を設けることを企画、取水口からトンネル経由での導水工事に着手、昭和13年(1938年)に総延長1,013bの導水路が完成した。(続く)
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