2018年11月10日
『水の古道』竹山隆恩[土/川]−1
【写真説明】左写真は清代開鑿の隆恩圳の今に残る日本時代改修部分を模したモニュメントで公園になっている。濁水渓を跨ぐ「集集攔河堰」(中央写真)の左岸部にあり、隆恩圳はこの現代システム建設に依り、文字通り枯渇してしまった(右写真)。同写真露出した石積み部は清代開鑿と思われる。
「隆恩圳」は台湾三大古圳の一つとして以前「『水の古道』八堡[土/川]−1」にて紹介した。
最近になり『台灣全覧-百科地圖集』(戸外生活圖書)全四冊を全部揃え、八通関古道竹山段踏査の際に眺めていたら、「隆恩圳」の文字が飛び込んで来た。あれ、有名な隆恩圳って新竹じゃなかったっけ?Google台湾で「隆恩圳」でのみ検索すると、五本がリストアップされる。それでカテゴリー名に「竹山」を冠したのだが、現場に出掛けて見た。水路開鑿と清代開鑿の八通関古道との関係は、後述の紹介文の通り関係は無い。しかし、地理的に、そして濁水渓の水を巡り繋がりがある偶然性に少なからず感動した。
古蹟指定された隆恩圳の現場は、以前紹介した省道3号丙線を竹山から集集へ向かうと濁水渓を渡るが、車道は大堰(「集集攔河堰」)上を走る。この大堰両下端の左岸側に隆恩圳に因む公園、右岸側に清代開鑿八通関古道上の国定古蹟「開闢鴻荒」碑(別に寄稿予定)に因む公園があり、つまり、これら二つの公園は濁水渓、つまり集集攔河堰を介して向き合っている。この間、約350メートル。集集攔河堰が隆恩圳に取って替わった。集集攔河堰工事時に、「開闢鴻荒」を含む岩盤を破壊、或いは水没から保存・保護する為に特別予算が組まれた経緯あり。以上が、隆恩圳の八通関古道との前述の二つの繋がりである。
南投県竹山鎮公所の正式サイトには以下(筆者拙訳、[ ]内は筆者註)の紹介がある:
「富州里(渓州仔)では、乾隆59年[1749年]、社寮地区の張天球等が社寮の農田の灌漑の為に、南北の水路を開鑿、山沿いの岩石を穿ち乍ら540メートルの間、[水が常時流れるように]水位を維持出来たことは素晴らしいと言える。日本時代の昭和3年[1928年]、社寮地区の米は豊作、栽培種の蓬莱米を昭和天皇に進貢した。更に隆恩圳を延長し吊橋も架設、社寮水利組合、信用組合も設立された。民国78年[1989年]、雲林六軽石化社[台湾プラスチック]は、河川[濁水渓]を堰き止工業用水引込み配管工事を実施、この工事の影響で隆恩圳は水没、水路そのものが毀損した。幸いにも社寮文教基金会が救いの手を差し伸べ、540メートルの内、172メートルを保存したが、無頭有尾[この場合、水源確保工事が等閑にされた?]の状態で、実際の灌漑が機能しない南投県三級古蹟になった。富州里には隆恩圳南北支線の源頭に土地公があるが、この小廟は全てが石造りで極めて古朴である。青竹文化園区は、著名な竹園であり、百余種の竹が集められ、南投県の竹類生態区となっている。竹編み笠の泰斗、曽対水女史は、総統府に招かれその技を披露したことがある。」(続く)
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