2007年07月01日
崑崙拗古道−1
【写真説明】左写真は高雄市内から高雄市街、鳳山市、高屏平野(高雄−屏東)越しに望む中央山脈最南端。山並みの左側の最高点が北大武山(台湾百岳92号:標高3,092メートル)、台湾五嶽の一つであり、パイワン族・ルカイ族の聖山、台湾最南の三千メートル峰でもある。その右横の頂が南大武山(2,841メートル)、更に右に移動して、台湾最南の二千メートル峰、衣丁山(標高2,068メートル)へと続く。この写真中央に写る町並みの外れを西側起点として、そのまま真っ直ぐ山に向かい、山を越え、太平洋岸に到る開山撫番道が開鑿された。写真右下に写る通りは、高雄国際飛行場と台湾鉄道高雄駅を結び高雄市中央を貫く中山路。このように、高雄市から大武山が望める日は一年を通じてそう多くはない。水蒸気量が減少する冬場の方が自然と機会が多くなる。但し、この写真を撮ったのは先週、夏場でも、雨が一降りしたりすると幸運に恵まれる。右写真は夕陽を浴びる左から霧頭山、北大武山、南大武山。高雄市内からの大武山は数限りなく見てきたが、このように夕陽を受けた山容を見たのは初めてだった。左写真と同日撮影。撮影地点は両写真とも高度約150メートル。
「崑崙拗」は現代地名表記「古樓(楼)」に充たるとされ、今はこのパイワン族の村は高屏平野(高雄-屏東間の中央山脈南部西側に広がる平野で、西端が高雄市)の東端沿いを走る屏東県道185線(沿山公路)の沿線上、屏東県来義郷にある。但し、元々の村落は中央山脈南部の最後の二千メートル峰、衣丁山(標高2,068メートル)の西側山間部に在り、日本時代は「クナナウ社」と表記され当時パイワン族最大の集落、約五十年前に政府指導で廃村、現在の平野部に移村してきたものだ。(メルマガ「台湾の声」編集部註:パイワン語でクジャジャウKuljaljau)
牡丹社事件(1871年、明治4年)の後、日本の台湾領有の企図を牽制する為に清朝政府が積極的な台湾経営に乗り出し、「開山撫番」(山を開き原住民族を撫順する)の名のもとに北部、中部、南部に各々西海岸から東海岸に至る横断道路を開鑿したが、その南部側に開鑿されたのがこの崑崙拗古道だ。開鑿当初は高雄市の東隣、現在の鳳山市を起点に衣丁山の南側を巻きながら東海岸、現在の台東県太麻里郷に至り、更に北上して台東縦谷に抜ける全長105キロ。1875年(明治8年)、中部に開鑿され台湾古道の代表とされる八通関古道よりも一年早く開通したとされている。元々この付近は中央山脈を境に、西側のパイワン族と東側のプユマ族との間で姻戚関係があり、婚姻道が横断していたそうだが、この古道開鑿の際はこの婚姻道をベースにした為、原住民族が積極的に開鑿に協力したと謂われ台湾古道史上特異なケースとされている。>(メルマガ「台湾の声」2005年12月23日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
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婚姻道というのは親戚同士が行き来する道と言うことですね?各原住民族の間には色々あるようで、サキヌ(パイワン族)の小説の中には『アミ族の女は大事なところを噛み切ってしまうから決して嫁に貰ってはいけい・・・・』などというところが出てきます。また、アミ族の中にはパイワン族に対してあまり良い評価をしない人もいます。どういう歴史から来ているのでしょうね?
『牡丹社事件(1871年)で日本が台湾領有を企図する。』 1871年を遡ること略20年の1853年ペリーが浦賀に来ました。その時の大騒ぎのことは歴史で習いましたが、国家の一大事だったわけですね。それから僅か20年、今度は他国を領有する話です。(尤も、ペリーの目的は領有ではなかったのですが、一般民衆は元より幕府だって今後どうなるか恐怖だったと思います)下関条約が1895年と言うことは知っていましたが、恐怖のペリー来航から僅か40年だと言うことを知った時にはちょっとびっくりしました。
「婚姻道」という単語は台湾側の出版物から拾った単語で、私は勝手に想像して納得していました。同族間、異族間、どちらも有りです。パイワン族だけでも台湾南部に於ける広がりは大きいです。
明治初期の日本の歴史に関し、私が引っ掛かっているのは牡丹社事件以後の征台の役(明治5年)と西南戦争(明治10年)です。前者の総大将が西郷従道、後者は西郷隆盛、実兄です。明治維新最高の元勲、所謂「征韓論に敗れて」西郷隆盛が野に下るのは征台の役前後、私が小さい頃教わった教科書では、征韓論に敗れた理由として、今は国力充実の時、外国を攻める余力無しという大勢に押された為と説明されていましたが、それでは征台の役は何だったかということになります。征台の役の意図は露骨ですからよく判ります。それでは、隆盛が意図していた征韓論とは何だったのか?本当に隆盛が下野するのが征韓論に「敗れた」為だったのか?今は、歴史の現実に即した色々な説が出ているようですが。(終)
台湾に付いてもですが、そこに行き始めて、好きという気持ちから知りたいと思い、本を読む。しかし、歴史については全てがと言ってて良い程400年前の鄭成功から。もっと前は?の疑問から原住民族にも興味を持つようになりました。ですから、私の場合、知りたいと思う切っ掛けは先ず「好き」、その次が「納得できない、どうして? どうしたら良い?」です。原住民族に絡む問題等がこれにあたります。そして今回のような場合です。
返事が遅れて申し訳ありません。拗の読み方はaoではないかと思います。元々はこの字ではなく、更に「山」冠が付いていたようですが、台湾でもそんな字は普通使いませんので、出版物では印字に苦労するか、山を省くかしているようです。
私は鹿児島生まれだから殊更西郷隆盛を顕彰するわけではありません。薩摩藩は確かに今の鹿児島の位置にありましたが、偶々薩摩藩が今の鹿児島という土地にあったという地理的な偶然性だけで、その後も鹿児島人が薩摩藩の精神性を継いできたか?完全に断絶しています。今の鹿児島人は薩摩の後継者でも何でもありません。ですから、例えば自分は鹿児島生まれだから、幕末から明治維新に掛けて綺羅星の如く英傑を排出した同じ地に生まれたことを誇りに思うと言う人がいれば、笑ってしまいます。
日本人は台湾で何をしたか?原住民のご老人が綺麗な日本語を喋るのをどう理解すればいいのか、未だに判りません。ただ、もし当時の日本を理解したければ、丹念に山を歩くしかないだろうとは考えています。余りにも多くの当時のものが山の中に封印されているからです。でも、実際はもう難しいのですよ。例えば、メイウェンティさんも読まれた古典、鹿野忠雄の「山と雲と蕃人と」の解説を書ける日本人は最早居ないという現実があります。鹿野忠雄の足跡を忠実に辿るには、尋常ならざる体力が要ります。私はもう遅いです。その内、大学の山岳部辺りが挑戦してもいいかとは思いますが。無論、台湾人ならまだ出来ますが。(終)
薩摩の精神性、明治維新の世の中の急激な変化で社会のことを考えざるを得ない空気の中ででてきたものだと思います。そんなことを考えなくても日々を送ることができる(ように見える)ようになると消えるのだと思います。今、台湾原住民族の間では権利、自文化等に関して色々な動きが起きつつがあります。裏を返せばそれらに関して満足な状態ではないと言うことですね。
以前、テレビ番組で金美齢さんが「植民地で日本語が強制されても全てが悪かったわけではない。日本語が出来たお陰で、経済的に豊になれるチャンスがあった」由の事を言っていました。それも一つだと思った記憶があります。ただ、それは植民者が言うことではないように思いますが。言語学を齧ってアイデンティティに関わる母語が人格形成にいかに大事なことかが分かりました。母語を強制的に変えるのはある世代から次の世代に伝えるべきもの(殊に生育期に親から子へ)が消えると言うことですね。特に台湾原住民族においてはその後又自分たちの言語ではなく、自分たちの文化とは全く違う中文になったわけですから、継続が大きく阻害されたと思います。
本当に鹿野忠雄と言う人は若いし、能力もあったという所為もあるでしょうが、なんと言うエネルギーかと思います。体力もそうですが、物事に対する興味の持ち方が普通ではないと思います。もし挑戦する人がいたら何かの形で応援したいし、楽しみたいと思います。