2018年09月08日
八通関古道竹山段−9:鹿谷段−1
【写真説明】清代八通関古道開鑿の関連古蹟として名高い、鹿谷市街地を走る南投県県道151号線脇に保存されている三基。左写真は「聖蹟亭」(同治10年、1871年建立)、中央写真は、新寮福徳廟(「新寮」は鹿谷の旧名、土地公)脇に並んで保存されている、右「私入番撒禁告示碑」(光緒元年、1875年建立)と「徳遍山陬碑」(光緒2年、1876年)、右写真は福徳廟内部、同写真左奥にそれらの碑が写る。何れも2005年の撮影。尚、八通関古道の完工は光緒元年(1875年)。
南投県鹿谷郷の中央部を竹山市街地を起点とし鹿谷市街地を抜け、台湾中央部の有数の避暑地の一つである渓頭(森林遊楽区)まで至るのが、県道151号線である。初郷村を過ぎて151号線を南進、初鹿市街地までの区間は清代八通関古道と重なる部分では無いかと想像している。本ブログ左メニュー『古道俯瞰図』「八通関古道−竹山段」−[2]の緑ラインを参考にして欲しい。と云うのは、初鹿市街地の中、151号線脇に八通関古道開鑿に因む古蹟が三基起立している(上掲写真)からである。
三基全てか、少なくとも一基は国家一級古蹟指定と云う説明が台湾ネット上には飛び交っており、筆者もそう思い込んでいた。台湾政府の国家古蹟等級は誰にでも非常に紛らわしかったので、1997年以降は整理され、一、二、三級の区別が無くなり、一括りに国定古蹟となった。今ウィキペディアの「台湾古蹟列表」(日本語版あり、但し、等級は1997年以前のもの)を閲覧するとこれら三基は国定古蹟の指定から漏れていることになる。しかしながら、「八通関古道」そのものは国定古蹟指定である。推測するに、国定古蹟八通関古道に付属する古蹟も併せて国定古蹟に指定されている可能性もあるが、明確な指定リストを見つけ出せずにいる。
清代建立の聖蹟亭は、台湾内に複数散在しており、「敬字亭」、「惜字亭」等とも呼ばれる。本ブログでも「浸水営古道−11」と「恒春卑南古道(阿朗伊古道)−10」で詳しく解説したのでそちらを参考にして欲しい。鹿谷の聖蹟亭は八通関古道の関連古蹟として必ず顔を出すが、実際は八通関古道開鑿前に建立されているので関係が無い。
新寮福徳廟脇に並んで立つ二基、「私入番撒禁告示碑」と「徳遍山陬碑」は八通関古道開鑿の証左、開鑿の目的「開山撫番」を彰かにしているものである。前者は、欽差大臣沈葆驍ェ清朝廷に対し「臺地後山請開舊禁摺」(同治13年、1874年)を奏上、従来の原住民族テリトリーへの漢人入植者、農民の侵入禁止を解除し、開墾、森林資源開拓、農作物栽培・収穫の督励を建議、当該碑文はその奏上を受けた通告になっている。後者は、鹿谷の住民の総兵呉光亮に対する、八通関古道開鑿の恩恵への感謝の呈辞である。(続く)
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