2018年07月21日

八通関古道竹山段−2

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【写真説明】清代八通関古道の開鑿起点は「九十九崁」と呼ばれ、レプリカ成らぬコンクリート製の九十九段の階段である。階段の最上下段は現代自動車道に面している。左写真は最下段、中央写真はその階段、右写真は最上段の点景である。南投県竹山鎮の行政センター鎮公所から歩いて行ける距離にある。

総兵呉光亮に依る八通関越えの東西横断道路の開鑿起点は、前山路が大きくカーブする袂、竹山神社跡地と地続きの「九十九崁」と呼ばれる場所と謂うことになっている。そこに何があるかと云うと自動車道の大きなカーブをショートカットするように設えられたコンクリート製の九十九段の階段があり、階段の上下段脇に、八通関古道起点であることを示した案内板、石碑がある。階段最下段の前山路向い側には車が数台駐車出来るスペースが確保してある。前山路と現代版九十九崁との関係は、左側メニューの『古道俯瞰図』の「八通関古道-竹山段」[1]で明瞭に確認出来る。

では、実際の開鑿起点はこの階段の上だったのか?下だったのか?その後八通関古道が、竹山(文字通り竹山の連続なのだが)を抜け、山に取り付き鹿谷方面に抜けていることを考えると、最下段が起点と云うことになりそうだ。「崁」は訓読みで「クボミ」と読ませているので、階段と解して良いのかもしれないが、延々と続く登り坂の形容なのだろう。

ところで、何故「九十九崁」の上下段を繋ぐように走る自動車道が「前山路」と命名されたのだろうか?清代、台湾の西海岸側は「前山」、東海岸側は「後山」、「山」とは中央山脈に代表される台湾脊梁と云うのが筆者の理解だ。平野部が多い台湾西海岸は早くに拓け、山が海岸まで迫り平野部が狭隘な東海岸は文化果つるの地、この前山と後山の間の障壁が峩々たる深山、「山」とは険しいと意味だけではなく、魑魅魍魎な原住民が跋扈する地―これが当時の台湾の地理的なイメージである。だからこそ、清朝に依る西側から中央山脈を越えて東側に到る軍事道の開鑿は、「開山撫番」(山を開き蕃人を撫順する)と呼ばれた。現在の南投県竹山鎮(当時は「林圯埔」)を開鑿起点としたのが清代八通関古道である。以上が「前山」の謂れだが、「前山路」の由来では無い。

九十九崁の最上段の前山路の向い側に「前山第一城」と刻まれた自然石を利用した石碑が立つ。周りの美観を損ねるような塩梅のデザインなのでその写真をこの投稿記事に掲載するのは憚られた。この石碑が前山路の由来である。

1885年(光緒11年)、清仏戦争終結後、清朝は台湾を福建省から切り離し、台湾省を新設、行政官トップである初代巡撫に劉銘伝(日本の台湾領有までに四代)を任命、台湾中部に雲林県を新設、この地に県城を設けた。それが「前山第一城」であるが、現在当地に同県城の遺構は無い。尚、劉銘伝は台湾に初めて鉄道を開通させたことで良く知られ、彼の名を冠した大学もある。(続く)


posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | 八通關古道‐竹山段 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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