2018年07月14日
八通関古道竹山段−1
【写真説明】竹山市街地最西端に位置する旧竹山神社跡は、壮大な鳥居が省道3号線を見下ろすように起立している(左写真)ので見逃すことは無い。但し、この鳥居を潜ると直接参道に導かれるのではなく、まず竹山役場(鎮公所:中央写真)に到る。旧神社跡地は竹山公園と呼ばれ役場に隣接している。九二一震災の際、参道の灯篭(右写真)が軒並み横倒しになった写真を目にしたことのある読者も多いと思う。旧竹山神社跡は台湾内に残る神社遺構としては良く知られているとは思うが、この公園を訪れる人が多いとは思えない。清代八通関古道開鑿起点との位置関係はダイヤグラムを参照して欲しい。役場が行政中心になるのだが、実際の竹山市街地は役場の東側に拡がる。
これまで本ブログでも繰り返して来たことだが、筆者の夢は筆者自身が呼ぶ「台湾古道の巨人」八通関古道全踏破である。この場合の八通関古道とは、日本時代開鑿の今現在は登山道として整備された、東側は花蓮県卓渓郷南安、西側は南投県信義郷東埔温泉を各々起点とする全長96キロ、日本時代は八通関越道路と呼ばれ、当時の総延長は124キロ。古道最高点は中央山脈大水屈山東斜面下の旧花蓮庁と台中州の州庁界、標高3,333メートル。古道をこの地点で東西に分け、東段、西段と通称されている。筆者は西段は縁有り踏破したが、東段は起点から蕨(駐在所)迄しか入り込めていない。少なくとも嘗ては武徳殿まで擁していたダーフン(駐在所)迄は辿り着きたいと日々想う。
日本時代開鑿の八通関古道は清代開鑿のそれを襲って開鑿されたのは事実だと思う。実際二つの古道が交錯している部分は多い。両開鑿完工には五十年弱の開きがある―清代、1875年(光緒元年、明治8年)完工、日本時代、1921年(大正10年)完工。それでも清代開鑿に纏わる遺物、建造物、又まだ実際歩ける段は残っている。一部はカテゴリー「八通関古道-西段」で紹介して来た。そのカテゴリーを敷衍し、清代開鑿の起点である南投県竹山鎮付近に残る今でも清代開鑿時の道路としてハイカーに歩かれている段を「竹山段」として今後暫く紹介する。この段は何も今になって紹介され始めたものでは無く、古道探訪の対象として相当以前から歩かれていることに、筆者は現地に足を運び、沿線の古ぼけ苔生した指導標を目の当たりにして驚いたのである。約二年前のことだ。
今回は特別投稿として清代八通関古道開鑿起点のすぐ傍に公園として残る旧竹山神社跡の紹介からスタートさせる。竹山市街地内に位置するこれら二つの遺物の近しさに驚いた。但し、実際起点とされる地点が学術的に証明されたものかどうか?筆者は現時点では知見無し。(続く)
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