【写真説明】今回紹介するのも予期せずに出食わした日本時代の遺物である。アミ族文化発祥紀念碑の在処を探している際、富田市街地東側の車道兼観光道(下掲写真:花蓮県道193号、嘗ての磯崎越嶺古道の一部のハズ)を走っていると、何の変哲も無い小さな湖に出た。その名前は何処かに標示されてはいたかと思うが、記憶に無い。手元の市販地図には、「浚哪水庫」と「安富水庫」が並んでいるが、その畔まで至り日本時代の紀念碑に遭遇したのは、前者である。ネットで調べると「俊哪池」の方が一般的に使われている呼称のようで、ウィキペディアにも独立した項目で紹介がある。アミ語のSenaの漢音訳で、元々は日本時代の最晩年に建設した貯水池である。紀念碑の頭部は当時のものでは無さそうだが、基部はそのままで、当時の碑文が読める上に、碑文の一部は新しいプレートを嵌め込み紀念碑の由来が判るよう便宜が図られている。日本時代、富田は鳳林郡に属していたことが判る。『水の古道』に組み込んでも良かった投稿記事になる。(続く)
2017年02月18日
磯崎越嶺古道−7
【写真説明】今回紹介するのも予期せずに出食わした日本時代の遺物である。アミ族文化発祥紀念碑の在処を探している際、富田市街地東側の車道兼観光道(下掲写真:花蓮県道193号、嘗ての磯崎越嶺古道の一部のハズ)を走っていると、何の変哲も無い小さな湖に出た。その名前は何処かに標示されてはいたかと思うが、記憶に無い。手元の市販地図には、「浚哪水庫」と「安富水庫」が並んでいるが、その畔まで至り日本時代の紀念碑に遭遇したのは、前者である。ネットで調べると「俊哪池」の方が一般的に使われている呼称のようで、ウィキペディアにも独立した項目で紹介がある。アミ語のSenaの漢音訳で、元々は日本時代の最晩年に建設した貯水池である。紀念碑の頭部は当時のものでは無さそうだが、基部はそのままで、当時の碑文が読める上に、碑文の一部は新しいプレートを嵌め込み紀念碑の由来が判るよう便宜が図られている。日本時代、富田は鳳林郡に属していたことが判る。『水の古道』に組み込んでも良かった投稿記事になる。(続く)
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック

