2017年01月28日

磯崎越嶺古道−4

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【写真説明】左写真は太巴塱(日本時代はタバロン、又はタパロン、以下タバロン)国民小学校の校門、省道11号甲線の北側、富田橋の袂に位置する。旧北富国民小学校で、台湾原住民族正名運動の結果、改称した。この校門の左右どちらかだったか忘れたが、恐らくは富田橋を見渡せる場所に小屋掛け(中央写真)し、アミ族像(下掲右写真)と一基の記念碑(上掲右・下掲左写真)が納まってる。架橋とは富田橋のことを指しているのだと思う。赤いペンキは元々の記念碑の刻字をなぞったのか?刻字部を削り出して新たに刻字したのか?字体が余りにも稚拙なので、後者ではないかと疑っている。恐らく富田橋を渡った向こう岸は花蓮県光復郷の行政中心地光復で、アミ族馬太鞍(マタアン)社の地とされるので、タバロン、マタアン社両社の和解と云う意味の「協力」と云う意味であろう。同記念碑の裏は、こちらは達筆で「自力更生(左)」、「為萬代不易(中)」等の刻字が並ぶが、記念碑表面との関係が不明、いずれにしても、台湾昭和時代からの遺留品である。

返す刀でと云う言葉があるが、磯崎越嶺古道東側起点踏査を諦めたその翌日、『台湾的古道』絵図に示されている西側起点に相当するだろうと思われる花蓮県光復郷東富村富田まで足を延ばしてみることにした。省道11号線を南下、同県豊浜郷豊浜から省道11号甲線沿いに海岸山脈を越え、光復郷の行政中心地光復側へ降りた。この車道部分は通称光豊(光復−豊浜)公路で、海岸山脈越え三本の省道の内最北に位置する。

日本の台湾領有が終了したことを意味する「光復」は、本ブログの読者はよくご存じのように、中国国民党用語だ。何故か、光復郷の現在の地名はこの手の用語に埋め尽くされている。14村で構成されているが、それらの村名は次の通りである;大安、大同、大平、大馬、大進、大全、大華、東富、西富、南富、北富、大富、大豊、大興。。。お気付きのように、「光復村」は存在しない。では光復郷の行政中心、光復郷郷公所の実際の所在地何処にあるかと云うと、花蓮県光復郷大華村中華路にある。光復郷は元々アミ族の地であり、そして日本人が入り混んだ。ウィキペディアには台湾の行政区は中国語、日本語両版があるが、光復郷の日本語版「歴史」の項は、中国語版とは異なり、興味深い紹介になっているので、そのまま引用する;

[引用始め]光復郷は旧名を「馬太鞍(マタアン)」と称した。古くは家々でキマメを盛んに栽培しており、そのキマメをアミ語で「バタアン」(Vataan)と称したことに由来する地名である。しかし日本統治時代、「馬太鞍」を「またぐら」と読みまちがえる日本人が続出し、それを嫌がった地元住民により、「上大和(かみやまと)」と改名された。

清代には馬太鞍社、馬佛社、サド(沙荖)社、タバロン(太巴塱)社などアミ族の集落が広がり、その中でタバロン社が台湾東部で最大のアミ族部落だった。咸豊年間より漢人の入植が進み、台東直隸州に帰属するようになった。1920年の台湾地方改制の際、この地は花蓮港庁鳳林郡鳳林街と瑞穂庄の管轄とされた。戦後もこの行政区分が用いられ花蓮県鳳林鎮と瑞穂郷の管轄とされたが、1947年3月に独立した郷として改編されることとなり、光復後に設置されたことを記念して「光復郷」と命名され現在に至っている。[引用終り]

台湾正名運動(台湾対中華民国)と同時に台湾原住民族正名運動が存在する。前者は政治的に極めて先鋭的なので触れないが、後者の例として挙げたのが、今回写真を掲載した太巴塱国民小学校、旧北富国民小学校から改称を獲得した。

大雑把に言って、磯崎越嶺古道西段起点と当りを付けた富田辺りがタバロン社、その西側の光復周辺がマタアン社だったようだが、探訪当時の20015年元旦もそして今でも筆者のアミ族に対する認識は乏しい。その上当時も駆け足で当地で廻っているので、今その当時撮影した写真を見ても情け無いことに、撮影した記憶さえ無いものが多い。又、一連の写真の繋がりもおぼろげだ。今回掲載した写真も、台湾ネット内の投稿記事を検索し撮影対象を確認する作業を経たものである。(続く)


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posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 磯崎越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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