【写真説明】左写真は士文村の古華国民小学士文分校校庭にある台湾ニ葉松、樹齢百年を越えているそうである。同校は日本時代、率芒菜典公学校→率芒公学校→須本公学校と名を換えたと同校庭に設置されている案内板に説明されている。件(くだん)の二本の松は、当時、日本人教師「大橋」先生、「小原」先生、並びにパイワン族教師「李清吉」先生に依って植えられたと、同じく同校庭に設置された案内板に謂う。日本人が嘗て暮らしていた場所に植えられた樹木は今では台湾の古木として育ち続けている。楠と松はその代表である。中央写真は士文村全景、同写真中央の一番高い建物が派出所、右写真は村の一角、同写真上の山の右端に嘗て神社があったそうだが、今ではその空き地だけが残っているそうである。
スボン社についての既に「浸水営古道−15」で紹介した。最初にこの村に訪れた時は駆け足だったので、その後再訪した。同村にも神社跡が残るという台湾側の記事を見付けたので、どんな形で残っているか興味があったからだ。謀らずも出会ったのが上述の松である。小学校はこの村の規模には不釣合いな派出所の隣にある。近い将来、松は日本からすっかり姿を消すのではないかと危惧する声を聞いたことがある。マツクイムシの害である。台湾はどうであろうか?
人が生活している場に立派な松があるとすれば、例外無く日本時代に植えられたものである。日本時代の遺構を訪ねる際、場所が特定出来ない時に、辺りの樹木を観察してみるというのは一つの方法であるというのはこれまで経験的に学んだ。学校の校庭に楠の大木があれば、そこは日本時代も学校だった、という具合である。後、日本人が好んで植えた樹木は梅、楓(かえで)であろうか?
同村に残るという神社の在り処に関しては、尋ねる度に異なる答えが返ってきたが、要は今はもう無いということでは一致していた。帰り際に遭ったご老人は80歳を越えている方であったが、立派な日本語で答えてくれた。私は鹿児島生まれで、日本語にひどい訛りがある。日本では一向に気にしたことはないが、台湾で原住民のご老人に向かって日本語で話し掛けるのは、相当勇気の要ることである。私の日本語が通じなかったらどうしよう、という恐怖感があるからだ。彼等の日本語は私が聞けば完全な標準語だ。(終わり)
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