2016年09月17日
『水の古道』曹公[土/川]−12
【写真説明】左写真は高屏渓右岸に設けられたサイクリングロード上に立つ曹公旧[土/川]の案内板。通称「五孔水門」であるがこの案内板では「五孔頷」となっている。実際この案内板が立っているのは曹公新[土/川]取水口近くである。中央写真は、曹公新[土/川]取水口近くに設けられた公園兼駐車場。どのような人々の来訪を意図したものか判然としないが、恐らく偶々新[土/川]取水口付近に位置しているだけだろう。新[土/川]取水口に関する一切の案内板は見当たらない。同写真左側に進むと新[土/川]取水口に行き当たる。右写真は、中央写真の筆者の背中側に位置する或る工場外側路地。同写真中央に写る路地奥で左側に写る工場のコンクリート塀が切れるが、そこに日本時代再建の新[土/川]取水口が取り込まれている。
以前にも紹介したことがあるが、『興水共生―高雄水資源的永続発展』という教育系サイトがあり、そこで紹介されている曹公[土/川]の案内を拾い読みしていると、新[土/川]とその頭[土/川](取水口)に行き当たった。驚いた事が二つあった。
道光年間開鑿のオリジナルの曹公旧[土/川]に対し、曹公新[土/川]は日本時代開鑿であると以前の投稿記事の中で説明したが、これは間違いである。新[土/川]開鑿は、旧[土/川]開鑿から二年後の道光22年(1842年)には起工されている。これは筆者の認識間違いで大したことはない。
驚くべきは、その取水口水門が残っていることである。但し、旧[土/川]取水口水門と異なることは、旧[土/川]のそれが、清代建立部分と日本時代改建部分が混在しているのに対し、新[土/川]の取水口水門はどうも日本時代に完全に再建したものが現存している模様である。「模様である」と書いたのは、現物を確認出来るかどうか?自信が無かったからだ。一般企業の工場の塀に組み込まれていると云う説明を見たからだ、
新[土/川]旧取水口は、旧[土/川]旧取水口から北側僅か三百メートルとの情報を元に、再び曹公[土/川]頭史蹟公園に駐車し、そこを起点とし北側に延びるサイクリングロード(「高屏渓下遊自行車道」)を歩き出した。高屏渓が右手、左側はサイクリングロードと人家と工場群が混在した地域を隔てる粗末な土手が続く。三百メートル程小雨の中を進むと、土手が切れて、自転車の模型を頭に頂いたモニュメントが立つ公園兼駐車場が現れ、そこは更に左手側を走る省道に連なる路地になっており、コンクリートの壁に囲まれた工場があった。サイクリングロードは更に北側に延びているのだが、このコンクリート壁の何処かに旧水門が嵌め込まれているはずだと思いながら、壁に目を凝らし、サイクリング道を少し進むとそのコンクリート壁が切れる部分が不格好な終わりになっていたので、すぐに見当が付いた。但し、『興水共生―高雄水資源的永続発展』で紹介されている写真(2009年撮影)から受ける印象とは大分異なっていた。
樹木は覆い被さり、その樹木の一部は先般の台風で圧し折られ、加えて大きな水溜りが出来ている。最初はなるべく近寄って水門とその水門の頭にあるはずの日本時代の刻字を確認しようとしたが、一旦は諦めた。折角探し当てたのに如何にも勿体無いと思い直し、傘を捨てて靴が濡れるのを覚悟で水門直下まで這入り込んだ。確かに「新[土/川]水制門」の刻字が読み取れた。
後程、この工場、然る日系台湾子会社のであることを知った。日本時代の水利事業遺蹟が工場の一角にあることを知っているだろうか?(続く)
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