2016年06月11日
『水の古道』后里[土/川]−6
【写真説明】左写真は泰安鉄道文化園区に抱合される「隘勇古道」出入口の様子。同写真左側に立つ鉄道信号灯を模した文化園区の標示柱が見える。左二枚目写真左側は隘勇古道石段、中央奥の白い案内板は台中県文化局のものだが、最早読めない。その右横に「大正五年総督府」石碑が佇む。作りが荒く損傷が激しく、「総督府」の文字(右二枚目写真)は殆ど読めない。石碑裏側の「大正五年」(右写真)はまだ読める。セメントと小石、それに鉄筋を加え製作されている。三角点に代表される台湾総督府時代の官製石柱は本ブログでも時折紹介するが、岩石から丸ごと切り出され製作されているので、斯様な仕様の石柱には驚いた。
泰安鉄道文化園区を起点にした后里[土/川]沿いの歴史風景として最後に紹介するのは、一般に「大正五年総督府」石碑と呼ばれているもので、筆者の后里[土/川]概念図の中で「台湾総督府古碑」と記載したものである。
泰安旧駅構内に「隘勇古道」の指導標が複数立っており、后里[土/川]沿いに北側に整備された遊歩道がてっきり隘勇古道だと勘違いしており、ずんずん進んで行くと、一般自動車道との合流点近くに、泰安社区発展協会作成の案内板が敷設された、隘勇古道の登り口があったので、そこまで歩いた部分は古道とは関係無いことが判りがっかりしたものだ。加えて、雨が降るので、恐らくは石塊の多い山道の昇り降りは面倒だと思い直し、古道歩きは諦めた。但し、その古道入口に探していた石碑があったのは意外だった。
「隘勇古道」の案内板全拙訳は以下の通りで、総督府古碑にも触れられているが、まずその石碑そのものが何なのか?皆目見当が付かず。この記事を書くに当たりネットで検索してみたが、現地の案内板以上の説明は見付けられず。台中県文化局に為る「大正五年総督府石碑」の案内板も現地には立っているが、色がすっかり褪せて最早読めない。()は筆者註:
「この古道は、清朝乾隆年間、(苗栗県)卓蘭鎮開発中は必ず通らなければならない道路だった。西側起点は后里泉州厝、老鼠崎−現在の泰安新鉄道隧道口を経由し、渓底−現在の泰安村に至り、更に目見崎、石壁坑、明正里を経て、東側終点卓蘭に至った。日本統治時代、当地のタイヤル族は尚「殺人頭」(恐らく「出草」の意)の習俗があったので、台湾総督府はタイヤル族を撫順・監督する為に、隘勇巡視古道を開削、農民・商人を保護する為に、「目見崎」に「大正五年総督府」石碑を設置した。この為、「隘勇古道」と呼ばれている。早期には、大安渓と后里[土/川]の水利施設開発の為に、この道路は頻繁に使われた。道路沿線には奇岩、奇木が多く、古い藤蔓が蜿蜒と絡まり、又希少価値のある紅欅が絶壁に聳え立っていたりする様は圧巻である。今現在は、目見崎と如光山寺の間が古道として保存されており、泰安旧駅からの往復時間は一時間程度である。」
第五代台湾総督佐久間佐馬太策定の所謂「五年理蕃計画」(明治43年・1905年)が終了したのが大正4年(1915年)である。「大正五年」(1916年)とはその翌年に当たるので、この石碑が佐久間の理蕃計画に絡んだものであることは容易に想像が付く。隘勇線に触れられているので、境界策定目的の為の石碑と考えられ、理蕃遺蹟に分類されるものかもしれない。今年丁度百周年を迎えた目出度い石碑でもある。(終わり)
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