2016年05月07日
『水の古道』后里[土/川]−1
【写真説明】明治38年(1905年)開通、昭和10年(1935年)の震災で橋梁のみを残し断裂した現在魚藤坪断橋(龍騰断橋)と呼ばれる縦貫線山線遺構。苗栗県三義郷龍騰村所在。上掲左写真の手前に写る鉄橋(龍騰渓鉄橋)は、震災後に架け替えられ1998年に廃線となった旧山線。下掲を含め他の写真は同断橋の角度を変えた拡大写真。以上四枚は何れも2004年5月撮影。
最近、台中市后里区の台湾鉄路台中線(俗称「山線」)の旧山線、泰安駅を訪ねる機会があった。今は泰安鉄道園区として観光客に開放されている。
1998年に廃線となった旧山線上には、泰安駅の大安渓を挟み北側に勝興駅があり、両駅とも観光スポットして人気があるが、週末・休日に圧倒的多数が繰り出す先は、勝興駅の方である。その一つの理由は、勝興駅の南側、旧山線上脇に苗栗県指定の鉄道高架橋遺構である、魚藤坪断橋(龍騰断橋)があることだと思う。ネット上には夥しい写真があるので、読者も容易にその遺構の威容をイメージ出来ると思う。威容とは偉容であり異様でもある。赤レンガ剥き出しの巨大な建造物が五基基起立している様は、正に廃墟の美の極致を思わせる。台湾を代表する既に百年以上の時を刻んだ工業古蹟である。
台中線(日本時代は縦貫線)山線の開通は1905年(明治38年)、魚藤坪断橋は開通時の山線の一部だったが、1935年(昭和10年)に大安渓中流域を震源とする通称新竹−台中地震が発生、橋梁を残し断裂したのが今に見る断橋である。1938年(昭和13年)に鉄橋を掛け直して山線は復旧。
筆者は台湾の工業遺蹟には興味はあるが、台湾鉄道ファンではないので、旧山線、現在の山線双方にこれ以上深入りする気は無い。今は、何故、今回『水の古道』として后里[土/川]を取り上げたか?その経緯を縷々と述べている。
当日は、泰安旧駅を目指したわけではなく、苗栗県卓蘭鎮山中にある古碑の踏査が目的であり、その帰りに、序に予ねてより何時でも確認出来るからと踏んでいた、后里市街地にあるはずの台中震災復興記念碑の所在と様子を確認しようと目論んでいた。当日まで、震災復興紀念碑が泰安旧駅構内にあることは知らなかった。更に、そもそもその記念碑の由来さえ知見が無かった。単に日本時代の紀念碑が、馬とサキソフォンで世に知れた台中市北部の街に鎮座していると云う程度の理解だった。
后里[土/川]を正に「発見」したのは、どうも上述の震災復興紀念碑は泰安旧駅構内にありそうだと当りが付けられ、その構内に足を踏み入れ、紀念碑の在り処を確認する前、旧山線線路を外れ東側の山沿に上る小道が付いていたので、何気なくその小道を伝ってみてのことだ。明らかに日本時代開削の水路を滔々と大量の水が流れているのは、これまで紹介して来た『水の古道』と全く同じである。(続く)
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