2016年04月16日

六義山(鹿鳴山)−2

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【写真説明】左写真は六義山頂上の様子。「六義」に纏わるであろう紀念碑一本と日本時代から現代を映す三本の指標が立つ。中央写真は陸地測量部(現国土地理院)埋定の三等三角点、右写真は台湾省政府(今は実質消滅)に依る「保護区界」碑、これまで弊ブログ(古道+百岳)で何度も言及したが、日本が台湾を放棄した前後の社会の質差異を如実に物語る簡便な対比だ。

「六義」とは、六義士、六人の義侠心のある勇士、所謂抗日烈士である。ここで謂う抗日とは、台湾人の抗台湾総督府武装蜂起の中でも著名な西来庵事件のことである。同事件に絡み同地で日本軍の犠牲になった六人に因む。

西来庵事件に関する台湾側資料はサイト上に溢れている。弊ブログの日本人読者の為には、ウィキペディア日本語版の説明で十分だと思うので、そのまま引用すると以下の通りである:「1915年(大正4年)に日本領台湾の台南庁タパニー(現・台南市玉井区玉井)で発生した武装蜂起。地名から「タパニー事件」とも、首謀者が余清芳であったことから「余清芳事件」ともいう。本島人による最後の抗日武装蜂起であった。」

同サイトに依ると検挙者数1,957人、内死刑判決を受けたのが966人だったと云うことなので大規模な武装蜂起(日本人側は95人が殺害)故、南台湾には西来庵事件所縁の祈念物は少なくない。それらの代表が、台南市市街地北区にある西来庵と玉井市街地東側に位置する標高258メートルの虎頭山山頂の抗日烈士余清芳紀念碑である。読者の中には実際足を運ばれた方もあるかもしれない。

六義山頂上にも紀念物が立っている。林務局の登山地図では、六義山啓用紀念碑、同山中の林務局の指導標上には六義士紀念碑との標示があるが、実際は赤色に塗られた鉄製の碑は立っていても、それに六義士の表示は無く、碑の土台に前高雄県長 楊秋興に依る「登高望遠」のプレートが填め込まれているだけだ。

紀念碑土台に填め込まれているプレートは他に二枚あり、内一枚に六義山の由来が以下の様に刻まれている(原文は中文のみ):六義山の原名は呉酒桶頭山、又は鹿鳴山、海抜七三八メートル。阿里山山脈小烏山山系に属し、甲仙市街地の西側に位置する。日本人は嘗てこの地に三角点を埋定した。民国五十七年(1968年)、台湾省政府主席 黄杰氏は南横公路施工の視察時、山名を六義山と改名した。稜線が南北に走っているので、高雄・台南両県の県境を形成、頂上からの俯瞰は、甲仙郷風景、南化ダム、遠くは台南県市、高雄県市までを含み、大自然の中の絵画を彷彿とさせる趣きあり、登山愛好者には必達の地である。」

実際頂上は全く眺望が効かないので、プレート文面の後段は余りにも大袈裟である。

これらのプレートが填め込まれたのは2003年である。三枚のプレートの何処にも「六義士」の単語は出て来ない。紀念碑自体はもう少し古いのではないか?と思われる。以前は六義士紀念碑と云うプレートが填め込まれていた可能性は高いし、同時に六義の由来も説明されていたかもしれない。抗日にしても義士・烈士にしても多分に中国国民党のプロパガンダなのだ。台湾の政治的な流れを感じさせる。

林務局は、「六義山(鹿鳴山)」なのだが、筆者の手元の『台湾全覧』は逆、鹿鳴山(六義山)、日本時代の山名を優先している。鹿鳴山の古名は、同頂上のプレートでは「呉酒桶頭山」だが、『台湾全覧』では「呉酒桶頂山」、林務局案内では「熬(ごう)酒桶山」である。

尚、日本時代に冠した「鹿鳴」の地名は今でも多数台湾に残るが、『デジタル大辞泉』に依れば「《「詩経」小雅の「鹿鳴」は、群臣や賓客をもてなす宴会で詠じる歌であるところから》宴会で客をもてなす音楽。また、宴会のこと。」(続く)
ラベル:台湾 台湾古道
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 六義山(鹿鳴山) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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