2016年03月12日
『水の古道』八堡[土/川]−2
【写真説明】前回記事で八堡[土/川]、八堡一[土/川]、八堡二[土/川]の分岐点は彰化県農田水利会ビル前にあると書いたが、日本時代の同水利組合を襲ったものだ。同構内のユニークな点は、日本時代、大正8年(1919年)に建立、その後民国64年(1975年)に新装した「林先生廟」を内包している事である。林先生に関しては本文記事参照。実際、この廟が主役で、構内には他に八堡[土/川]に因む事物が配されている。左写真は水利会入口の門牌、水利会では無く、林先生廟なのだ。その廟は同写真左奥に写る。中央写真は同廟正面、廟に掛かる「林先生廟」の額は日本時代のもの。右写真は廟正面を背にし左手にある、八堡[土/川]源頭碑、何時の時代の物かは判らず。何故ここが源頭か?源頭は濁水渓のはずでは?という具合に皆目見当がつかなかったが、地図を見て、確かに八堡[土/川]の西端になるだけではなく、現在の八堡一[土/川]こそが、実は元々の八堡[土/川]と云う解説を目にし合点が言った。
八堡[土/川]開発の黎明期の百科事典的概観は以下の通りである:
八堡の「堡」とは、中国の行政区域機構の保甲制度の「保」であり、日本時代「堡」に換字、当時の「八堡」とは現代の彰化市を始め、二市、五鎮、十二郷を抱合する地域である。
施工者は、施世榜(福建省泉州出の父親、自身は鳳山県出生)、これに八堡二[土/川]の開鑿者である、黄仕卿が加わる。
康煕48年(1709年)施工開始、康煕58年(1719年)完工。
開鑿初期、施世榜は、濁水渓からの引水に艱難辛苦、そこへ自称、林先生なる翁が忽然と出現、施世榜へ秘伝工法を伝授、その後、林先生は素性を明かさぬまま又忽然と失踪―その秘伝の一つが、「籠仔筍」或いは「霸籠」、籐製の水流圧緩衝機構だと筆者が推定するもので、林先生廟内にその模型が陳列されていたようだが、筆者が訪問した際には見当たらず。八堡[土/川]イコール籠仔筍である。
つまり、林先生廟は林先生の遺徳を偲び建立されたもので、林先生、施世榜、黄仕卿三人の合祀である。
尚、日本時代を含む八堡[土/川]の開発史は、彰化県文化局公式サイトに詳しい。(続く)
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