2016年01月02日
八卦山古道−1
【写真説明】台中市南に隣接する彰化県の中心都市彰化市、その市街地東側に標高97メートルの八卦山がある。そこに鎮座する黒塗りの大仏は恐らくは彰化県で最も人口に膾炙した景観であろう。三枚共(安物の絵葉書様で申し訳ないが)2001年撮影。その後2002年に再訪。爾来未だに同地を訪ねる機会無し。それでも八卦山古道のカテゴリーを設けたのは、次回の投稿で説明予定。
明けましておめでとうございます。今年2016年も弊ブログをご贔屓賜りますよう宜しくお願い致します。
やっとこさ2015年の投稿も歳を超すことが出来た。今年は昨年のように途中で長期間ダウンして仕舞うことなく、常時(とは云え、一週間の一回限りなのだが)、そう平常心を保ち心の余裕を持ちながら投稿を継続したいものだ。
新年に因み、定番の南台湾から一旦抜け出したいと思う。
国道3号線を北上、雲林県斗六インターを通過、南投県に入り竹山、名間インターに近くなると左手前方に垂直に立ち上がった台地が現れる。この台地は色々な呼び方をされている。曰く、八卦台地、八卦丘陵、八卦山(山)脈。。。実際独立した丘陵で、筆者は何時も3号線の同区間を走りながら、その丘陵上にも街が広がっているのを不思議な気持ちで眺めて来た。八卦の名があるのは、この台地の北端、彰化市市街地東側にある大仏で有名な八卦山があるからだ。『臺灣地形圖新解』を見ると、八卦山の記載はあっても丘陵名は冠されていないが、ウィキペディアを見ると、日本時代から八卦丘陵と呼んでいたことが判る。
八卦山そのものと日本との繋がりは深い。嘗ては、北白川宮能久親王殿下記念碑が立っていたし、境内下には「八卦山乙未抗日烈士紀念碑公園」なるものも存在する。その背景は弊ブログの読者の方が詳しいかもしれない。「乙未(いつび)戦争」とは日清戦争終結に伴う下関条約後の台湾に於ける日本軍に依る残敵掃討戦の総称である。ウィキペディアに要領良く纏められており、彰化の地名も出て来る。
この大仏の八卦山は、八卦山国家風景区の南端にある点に過ぎないが、彰化市市街地にある簡便さ故、その中核を成し、別名大仏風景区とも称されている。実際の八卦山風景区は、八卦山丘陵―筆者は敢えて八卦山山脈と呼ぶのを好んでいるのだが―全体を包括している。
この山脈の全長は、北端の彰化市と南端の名間間を結ぶ直線距離で約30キロ強、最高点は横山、標高443メートルである。前述したように、独立した南北に長い山脈で、山裾が台地状故、山脈全体はピーナッツ状を成している。南端を流れる濁水渓が削り出した山脈である。山脈、或いは丘陵全体が八卦山国家風景区に指定されている。
この山脈、或いはピーナッツはその外周を自動車道がぴったり取り巻いている;東側から時計周りに、省道14号線、省道3号線、県道137号線、省道1号線の順である。国道3号線からこの山脈に載り上がるアクセス口は、南投、中興、草屯のインターであるが、これらは短距離で集中している為、或る特定の場所を目指す場合、逆に判り難い。山脈中央下を省道76号線が八卦山隧道を擁しながら東西に潜り抜けている。
何時頃だったか?そう遠く無い昔、交通部観光局発行のパンフレットの中に、「参山国家風景区」と云うのがあった。参は三であり、参山とは、獅頭山(本ブログにカテゴリーあり)、梨山、八卦山を指すのだが、これら風景区を包括する行政区は、新竹県、苗栗県、台中市、彰化県、南投県の五区に及ぶと余りに包括的なので、一括りにしてしまった理由は今でも筆者には判らない。要は八卦山は参山の一部と云うことである。
次回は何故八卦山古道なるカテゴリーを設けたか?の説明から始めることにする。(続く)
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