【写真説明】「大社地区概況図」の2007年(左写真)と2015年(中央写真)の比較。左写真を撮影後、丁度一年後にモーラコット台風が台湾を襲う。右写真は、現大社部落と旧社を結ぶ登山道案内板、2007年撮影。下掲左写真は、旧トアアウ社の居住状況を示した案内図と右写真はその拡大図、2007年撮影。当時、旧社跡は「大後部落旧址生態」園として整備され一般に開放されていた。
パイワン族旧社の中で、予ねてより、割とアクセスが容易ではないか?と推定しながら探訪が先延ばしになっているパイワン族旧社が二箇所あった。一つが、トアアウ社(現屏東県來義郷義林村大後社)であり、もう一つが、コワバル社(現屏東県春日郷古華村)である。最近になりその機会に恵まれたので、まずは、トアアウ社の方から紹介する。
大後社は、沿山公路(屏東県道185線)と東西に交差する屏東郷道110号線を古楼、來義と辿り、來社渓(ライ)と瓦魯斯渓(クワルス)の合流地点からクワルス渓左岸を北上する大後道路を北上すれば難無く至る。
最初に探訪したのが2007年7月、筆者が中国蘇州での仕事を開始する直前なので、モーラコット台風以前である。当時、大後社区に入り目にした案内板が三基あった。「大後地区概況図」、「大後生態歩道導覧図」、「大後部落生態図」である。
「大後地区概況図」は、現在の大後部落と旧社との位置関係を示し、次の「大後生態歩道導覧図」は、現部落と旧社を結ぶ旧大後登山歩道の案内図であり、「大後部落生態図」とは旧トアアウ社居住状況図である―以上は当時写真に収めていたのだが、2015年9月の二回目の訪問の際、一顧だにせず、お陰で肝心の登山口を探し出せず、旧社に辿り着くのに難儀した。つまり、この投稿記事を書く為に新たに閲覧したわけだ。尤も、これらの案内図はモーラコット台風に吹き飛ばされ流され、今は現地には無かったし、そもそもこれらの案内図を何処で撮影したか?想い出させる縁(よすが)も現地には残されていなかった。
さて、何故こんな案内板の話など延々とするのか?それは、旧トアアウ社の住居レイアウト図である「大後部落生態図」の中に「敵首塚」の文字を見付けたからである。当時、パイワン族の頭骨架(首棚)なり、頭骨塚なりが現存しているという知識が無かったので、不気味であるより酷く新鮮だったが、ではそのような「敵首塚」がどのようなものか?想像だに出来なかった。当時、旧社への登山口はすぐに見付ったのだが、草茫々、現地の案内人を雇う可きとの同行者のアドバイスを容れ、踏み込まず。その為、どうしても再訪したいと考えていた。
現地に辿り着いた後、かなり後になり2007年当時の写真を見返してみた愚かさに歯痒い思いがする。もし、今回出掛ける前にざっとでも閲覧しておけば、当該地に辿り着いた後、いの一番に探しに掛かったはずなのに。。。「敵首塚」が、パイワン族の頭骨架を意味するのか?日本人が作らせそれらの頭骨を埋めさせた墳墓形式の頭骨塚なのか?もう一回出掛ける気力と体力はあるだろうか?(続く)
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