【写真説明】左写真について。霧社から合歓山(3,417メートル、台湾百岳36号)へ登り詰める省道14号(甲)線(合歓山越嶺古道)の途中から、能高山(写真左上の最高点)と能高越嶺古道西段を抱く山稜を望む。写真中段上を横切り右側から高度を左側に上げていく稜線がそれであるが、古道はこの山並みの反対側の山裾を貫く。この稜線の写真右側の白い部分はタイヤル族の集落、現在は南投県仁愛郷合作村、平和、平生、静観等の部落を有する。静観は、このブログ(「霞喀羅古道−8」等)で触れたことのある新竹県尖石郷鎮西堡と併称される台湾最奥の村ということだ。日本時代はサード社、トロツク社等で呼ばれていた地域である。これらの部落へは盧山温泉を経由してまず仁愛郷精英村盧山部落に入る。日本時代にボアルン社と呼ばれていた部落で、霧社事件の際蜂起した六社の中の一つである。西側に辿れば現在の能高越嶺古道の入口に至り、そのまま北上すれば合作村である。尚、写真は10月初旬に撮影されたもの。台湾の薄(すすき)は日本のそれに比べて小振りな感じだ。又、台湾ではセイタカアワダチソウの侵入を受けていないようにも見受けられるが実際はどうだろうか?
まず、前回の記事の訂正から:「初音駅は、日本時代も現在も花蓮駅の南側最初の駅である。現在の駅名は何故か「嘉義」だ。」(能高越嶺古道−7);「日本時代の鉄道の初音駅は現在は嘉義駅」(能高越嶺古道−9)...これら二つの記述は間違いである。まず、日本時代の初音駅は、戦後、南華→干城と変わり現在は廃棄されている。更に、花蓮駅の南隣の駅と書いたが、花蓮駅の南隣の駅は吉安駅(日本時代の吉野駅)である。この誤りの原因は、私の手元にある台湾地図が不正確であったこと(吉安駅の記載が無い)と、加えて誤植があった(干城駅を嘉義駅と印刷)ことである。鉄道マニアの方はすぐに間違いに気付かれたかもしれない。深く陳謝する。
能高越嶺古道に関する記事掲載は今回で一端終わりにする。東段の踏査が殆ど手付かずの状態であること、西段についても霧社から現在の古道入口に到る為には必ず通過する盧山部落(ボアルン社)までは霧社事件の際蜂起した六社のうち、五社が集中していた地域だが、この部分も踏査が不十分であること、この二つの理由で中途半端な形で終わっているので、往く往く加筆していく予定である。実際は、霧社−盧山間は自動車で簡便に入れるし、しかも盧山温泉(マヘボ社のあった辺り)は私の好きな温泉で合歓山方面に出掛けた時はよく入りに行くのだが、常に同じ温泉宿(といってもかなり現代風、但し、広くて深い浴槽に素裸で入れる)に直行、台湾の大きな温泉街でよく見られる呼び込みが煩わしいのと、入浴後は高雄まで五時間程のドライブが控えているからである。従って、温泉街自体もゆっくり散策したことが無い有様だ。
最後に、上掲の右写真について。同じ14号甲線途上で撮影した写真であるが、撮影地点は左写真撮影点付近からかなり下った清境農場地区内にある博望新村、蒋介石の国民党軍、ビルマまで南下した雲南救国軍とその眷属が入植した村で、最近は日本でもよく紹介されるようになった。私の記憶に間違いが無ければ清境農場付近(南投県仁愛郷大同村)は台湾のスイスと呼ばれているはずである。私自身はスイスに行ったことがないが、これは余程大袈裟な呼称だと思う。但し、もしこの付近を通過した際、晴天に恵まれていたとしたら些かは何故そんな呼称が浮かんできたのかを体得出来るかもしれない。この付近はかなりの回数往復しているが、この日のように合歓山・奇莱山連峰を一度に見渡せるような天候に恵まれたのは実は初めてだった。写真左側上で最後方の稜線が一端沈んでいるが、その左側稜線が合歓山へ続く。そこから写真上段を右側へ貫く稜線はこのブログでも度々紹介した奇莱主山連峰である。同稜線一番左側、鋭く立ち上がっている稜線がこの連峰で最高峰の北峰(3,608メートル)、奇莱主山の代表である。写真左下の突き出た小山一帯が前述した合作村である。撮影地点の標高は約2,000メートル。
ところで、奇莱山で近代台湾登山史上最悪と言われる遭難事件が発生したと書いたが、1970年代に二件発生し、遭難者はいずれも学生、死亡者は合計11人。無論、気候の相異が山岳遭難には大きな影響を与えるが、日本では毎年何人の山岳遭難者が出ているかご存知だろうか?日本人は余りにも山で命を粗末にし過ぎているようであるし、今後中高年の登山は更なるブームになることを考えたらこの傾向は今後も必定だ。(終わり)
【関連する記事】
- 能高越嶺古道−35:松原駐在所−2:「深堀山西南」水準点
- 能高越嶺古道−34:松原駐在所−1
- 能高越嶺古道−33:能高駐在所−2:「能高」水準点
- 能高越嶺古道−32:能高駐在所−1
- 能高越嶺古道−31:古道東西分岐点−2
- 能高越嶺古道−30:古道東西分岐点
- 能高越嶺古道−29:合作村静観(2)
- 能高越嶺古道−28:合作村静観(1)
- 能高越嶺古道−27:合作村平生
- 能高越嶺古道−26:精英村平和
- 能高越嶺古道−25:精英村平静(2)
- 能高越嶺古道−24:精英村平静(1)
- 能高越嶺古道−23
- 能高越嶺古道−22
- 能高越嶺古道−21
- 能高越嶺古道−20
- 能高越嶺古道−19:尾上駐在所
- 能高越嶺古道−18:雲海保線所
- 能高越嶺古道−17:富士見駐在所
- 能高越嶺古道−16:能高越嶺古道登山口
もう一冊は《環太平洋先住民族の挑戦(自治と文化再生をめざす人びと)》原田勝弘・下田平裕身・渡辺秀樹編著 明石書店(1999)。その中に力行産業道路の改善・補修に関する記述があり、それは霧社から佳陽までの旧理蕃道路であるとあります。力行とはマレッパ社のこと。以前霧社事件に関する本は何冊か読みましたので、マレッパという地名は覚えています。(ただ事件とどういう風に関わったかは覚えていませんが)地図を見ながら読んでいて、今回初めて霧社とマレッパの距離を知りました。全長64`の半分近くですので、歩いたら一日仕事でしょう。それに、夜ともなれば街灯があるわけではないですから、月がなければ真っ暗でしょうし。以前上巴陵に行った時、カラ部落に降りておしゃべりをしていて薄暗くなり、慌てて戻る途中にはもう暗くなり、ちょっと怖かった思い出があります。夜は暗いということを忘れていました。
偶々読んでいる本の2冊ともこの古道に関係があるものあったので書いてみました。あることに対する知識を得、ある程度形が見えてくるともっと色んな事が知りたくなりますね。
「東台湾開発史」は台湾の歴史に興味のある方にはよく読まれているようですね。調布市の市立図書館は台湾関係の書籍は少なく残念ながらこの本は置いてありません。最近「台湾の声」に投稿(現時点では未掲載)した「蘇花古道」には若干日本時代−戦後を通した東台湾開発の歴史を混ぜてあります。山口氏の叙述と齟齬を来たしている部分があるかもしれません。その時は指摘して下さい。このブログの記事を書く時とか台湾の歴史、特に日本時代の歴史を調べる際は、日本語の資料に依った方が正確なことは認識していますが、私は出来る限り台湾側の記述に依ることにしています。それらの殆どが日本時代の日本側の資料をベースにしていることは想像できますが、それらがどう台湾側で記述されているかに興味があるからで、これが私の基本的な態度です。尤も、専門家ではありませんから、日本側の膨大な資料に簡単にはアクセス出来ないという事情が大きいですが。
力行産業道路は、霧社と梨山を繋いでいるので、霧社から梨山へ降りて行くのに合歓山を越えなくて済むので近道になりますが、産業道路の名が示すように大変は道路です。理蕃道の現在の形態の中に林道と産業道路がありますが、前者は文字通り林務局が管理するもの、後者は山間部の資源開発(農産物、鉱物)に供される道路という性格があるようですが、多くは原住民の換金作物の栽培・収穫の為の道路です。霧社からだとこの道路がどう走っているのか見渡せます。この道路を降り切った所に、紅香温泉があります。数年前、雪山に登った帰りにこの温泉に立ち寄り、力行産業道路を逆に辿ったことがあります。当時はこの温泉は全く当地の原住民の方が日常入る為のもので、古い簡単な小屋掛け、無料でした。日本の昔の田舎の温泉は斯く有り、と思わせるようなものでした。但し、その時は夜中に入りましたので、これを明るい内に入ってしまうと一般の日本人が入る気になるかどうかは判りません。今もそのままなどうかは判りません。(終)
《東台湾開発史》は台湾資料センターで借りました。