2015年06月20日

水沙連古道−6

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【写真説明】省道21号線を水里から魚池、即ち日月潭方面を辿ると、72キロを過ぎた辺りに銃櫃村への入口があり、ここが水沙連古道二坪山古道段東側入口である。左写真はその入口の省道を隔てて丁度真向いの道路脇に設けられた、魚池郷への入境を意識したモニュメント、キュウリである。

これまでの投稿記事での紹介では、二坪山古道として整備された水沙連古道の一段、全長2,634メートルの魚池郷側出入口は、銃櫃村であると説明して来たが、筆者は現地の案内板とか台湾サイト内の紹介に従ったまでだ。古道西側(西段と云うには余りにも短いので)は水里郷鉅工村が現在の正式な行政区画名でもあるが、西側は魚池郷竹登村銃櫃が正式である。

「銃櫃」とは物騒である。銃を入れる櫃(ひつ)、つまり銃格納ケースである。これは原住民と大陸渡来の開拓民の武力抗争が歴史的背景としてあり、所謂「防蕃」に関わる地名である。防蕃も銃も開拓民側に寄る。「防蕃」については、「新店獅仔頭山古道」シリーズで詳述したので、例えば、「防蕃碑」を紹介した写真と記事を参照願いたい。現代地図帳でも子細に眺めれば幾らでも拾いだせるはずだ。

もう少し「銃櫃」に判り易い説明を加える。「日月潭国家風景区公式サイト」(日本語)の中に日月潭を含む周辺の観光スポットを紹介しているコーナーがあるが、その中の「竹登天宝堂」は以下の説明が加えられている。日本語なのでそのまま転載する。但し筆者自身は未踏査:

頭社盆地から台21線に沿って水里郷に向かう途中、右側に高く聳えた太子爺の神像をみることができる。これは武登村の銃櫃天宝堂である。

「銃櫃という地名の由来には二つの説がある。その一つは、清代、原住民がよく水沙連古道の土地公鞍嶺付近に首狩りに出没したため、清政府は民兵を派遣し、街道を行き交う人たちを保護した。そのときに弾薬庫も設置したため、銃櫃と呼ばれるようになった。もう一つの説は、清が台湾を日本に割譲した後、日月潭一帯の住民が日本軍の進入を阻止するために、銃櫃付近の土地公鞍嶺に基地を構えて抵抗したことから、この名がついたというもの。」(続く)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 水沙連古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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