2015年06月06日
水沙連古道−4
【写真説明】左写真の左側道路は「二坪山 水沙連古道」の指導標が立つ古道入口の一つ、その道路右隣手前に立つ「大観冰店」とは「二坪冰」(二坪アイス)宗家販売店である。中央写真はその店舗、旧正月中の朝九時前でお客さん無し。右写真は確かそのアイス販売所敷地内に展示されていた発電用タービン。同写真台座に填め込まれた説明板に「この小発電機は民国33年に設置。。。」の記載あり、つまり終戦直前の昭和19年製ということである。ここで、日本―発電所―アイスという線が描けるわけだ。
もう暫く水里市街地で足踏みする。今回の記事は知らない人には割と意外な感を与える代物(しろもの)を紹介する。と云っても筆者自身は熱烈な愛好者ではない。
「水沙連古道−1」に自動車道上に敷設された「二坪」石標の写真を掲載したが、水里二坪は、台湾中で音に聴こえたアイス、「二坪冰」の製造・販売地である。アイスとは、かき氷の類ではなく、昔ながらのアイスバーだ。筆者の手元にある市販地図には「枝仔冰」の記載があるが、どうも正式名称は「二坪冰」のようだ。
アイスバーとは何か?―昭和三十年前半生まれの筆者は子供の頃、何と呼んでいたか?想い出せないでいるが―その具体的な視覚性を得るには、日本語検索サイトで「水里 アイス」とタイプすれば、日本人観光客とか台湾在住の日本人に依るブログ記事と件(くだん)のアイス―バーの写真が多数出て来るので、これ以上の説明は割愛させていただく。つまり、水里の特産品の一つが、昔ながらのアイスということだ。ところで、筆者自身は当時賞味したかどうか?忘れてしまった。
それら日本人に依るブログ記事の中に、恐らくは、元祖二坪冰販売店店内に掲示してあった中国語の説明書きの写真があったので、拙訳させていただく。二坪アイスは特異な歴史を具有していることが判る:
「水里二坪冰(アイス)由来」
[抜粋拙訳始め]中華民国30年代末(筆者註:終戦1945年は民国34年)、鉅工発電所内は製氷設備を所有しており、氷そのものの生産に従事、冷凍業者へ卸していた。民国40年代初期(民国40年或いは41年1月、何しろ古い話なので確証が無い)(筆者註:民国40年は1951年=昭和26年)、製氷装置を同発電所二坪宿舎に移動、発電所職工組合が製氷事業を引き継いだ。同時に、台湾電力工員を台中地区の多くのアイス製造会社へ派遣、アイス製造技術並びにアイスのレシピを習得させ、それらを二坪区の工員の眷属にマスターさせた。。。
(中略)「二坪」には二つの地名が係っている;一つは二坪山であり、その地名はそのまま発電所宿舎の区名でもあった。又、行政区域としては二坪巷である。市場では鉅工発電所職工組合製(所謂「本社製」)では無いアイスを二坪アイスとして販売する業者が少なくなかった。このようにして、「二坪アイス」の名は次第に人口に膾炙し出し、今や水里の特産品の一つとなった。。。
(中略)民国88年(1999年)2月、台湾電力は組織を簡素化する為、鉅工発電所を明潭発電所の分所へ改編、明潭発電所職工組合がアイス事業の経営を引き継ぎ現在に至っている。[抜粋拙訳終わり]
水沙連古道二坪山段はこの二坪アイスの本家本元販売所をその路上に擁しているのだが、当然、アイス目当ての観光客は古道にまで目が向くとは思えない。(続く)
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