2015年05月30日
水沙連古道−3
【写真説明】水里市街地の目貫通り、民生路は水里橋にて水里渓を渡るが、左写真はその橋上から北側上流左岸にある通称鉅工発電所を望む。日本時代の日月潭第二発電所である。中央写真はそのズームアップ、山の斜面を這う水圧管と発電所本館、一目で日本時代の遺構であることが看て取れる。古道は左写真に写る右側山腹を巻いている。右写真は、古道がまだ市街地内にある部分から水里市街越しに望む濁水渓、同写真右奥に写る橋梁は玉峰大橋。
もう少し現地に設置された案内板に依り、百科事典的な説明を続ける。
今回は、古道入口から約500メートル地点に設けられた展望台(観景平台)に付設された「二坪山」解説板全拙訳は以下の通り。前回の案内板記載内容と重なる部分もあるが、ユニークな部分もある:
[案内板説明始め]
本「水沙連歩道」は「水沙連古道」の一部分である。同歩道の中に「二坪山登山歩道」も含まれる。二坪山登山歩道の旧称は「土地公鞍古道」である。同登山歩道の入口は水里郷鉅工村であり、魚池郷銃櫃村にあるもう一方の出入口まで通じており、全段を歩き通すのに約一時間半必要だ。
清朝乾隆帝(1788年)の時代に、当時の人々は集集から埔里まで辿るのにこの歩道を利用、水沙連古道南段の非常に重要な一路線だった。現在の省道21号線は、この一段を延伸、整備したものである。二百年前は商人が行き交う「塩の道」であり、それから二百年後は今に見るホットな「二坪山登山歩道」に替った。
「二坪山」は水里郷の重要な地標の一つ(標高731メートル)であり、旧称は「土地公鞍嶺」、その地理的な優位性から、日本時代、日本政府は日月潭周辺で大掛かりな水力発電事業を展開、水里渓まで水を引き込み、水里地区に大観発電所と鉅工発電所を設置した。(水里郷公所101年10月製)
[案内板説明終り]
水里郷内にある発電所は、正確には案内板に謂う大観発電所と、もう一つ明潭発電所の二つである。前者は二つの発電所(第一、第二)を擁するが、第一発電所の方は1918年(大正7年)8月完工,1934(昭和9年)年6月発電を開始した日月潭第一発電所がその前身、現在も現役であるが、台湾十大土木工事遺蹟に指定されている。
後者の明潭発電所は1993年完工、1995年に発電開始、現在台湾で最大の水力発電所である。現在の台湾電力の組織では、鉅工発電所は「台湾電力明潭発電廠鉅工分廠」が正式名称で明潭発電所の下部組織だが、日本時代、日月潭第二発電所として1937年(昭和12年)に完工、発電を開始した。
上記記事中に埋め込んだURLはすべて中文版ウィキペディアからの引用である。というのは、本家の台湾電力の公式サイト内の解説より遥かに詳しく、又、写真等のサブ資料も豊富だからだ。残念ながら日本語版は無い。更に、補完資料として同じくウィキペディアから「日月潭水力電気工事」と「台湾日本時代発電所一覧」も追加しておく。後者の解説冒頭に、日本時代の台湾発電は、「火主水輔」(火力発電が主、水力発電は補完)だったが、日月潭の水力発電開発以降、「水主火輔」時代になったという、目から鱗的な下りもある。
因みに、「鉅工」の「鉅」の訓読みは「はがね」、宋美齢の命名、これに対し、「大観」は蒋介石の命名だそうだ。
このように、日月潭とその周りの河川を利用した日本時代に起源を持つ水利・電力事業の実際を観察することはそれだけで一冊立派な本が仕上がるぐらいだと考えつつ、今までその機会を逸し続けている。ざっと丸二日あれば駆け足で見て廻れるのではと皮算用済みなのだが。「水の古道」の精緻となるはずだが。。。(続く)
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