2015年05月23日

水沙連古道−2

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【写真説明】水里市街地内では同じ古道(歩道)を表現するのに、「水沙連古道」、「二坪山古道」(以上二つは前回記事に写真掲載)、加えて「二坪山登山歩道」の三種の指導標が混在して掛かり、更に、これらの古道・歩道を辿るには複数の出入口がある。今回掲載した写真は水里市街地の目貫通り、民生路沿いに出入口が設けられた同古道。左写真が民生路に面した出入口、中央写真はその路地、つまり古道を少しだけ辿り、民生路側に臨む。右写真は古道が最初の登りに差し掛かった段。尚、水沙「連」と「漣」も同様に混在して案内板等で使われている。

第1回目の投稿記事と重なる部分が多いのだが、現場に設置された水沙連古道案内板の筆者拙訳を併記することに依り、もう少し同古道の百科事典的説明を追加したい。

「二坪山古道」案内板全訳、()内は筆者註:
[案内板説明始め]
古来、日月潭の周囲は邵(サオ)族(2001年10月台湾原住民族として承認)の居住する桃源郷であった。この一片の青翠(せいすい)秀美な大地は明・清の時代より「水沙連」という美麗な名称で呼ばれて来た。綿々たる山々を繋ぐ原始よりの小径(こみち)は、古来より台湾原住民族のタイヤル、サオ、ブヌン族が各々開鑿・利用して来た山道であり、これらの山道を現在は便宜的に「水沙連古道」と総称している。それら山道の一つは、当時塩商人が鹿港(彰化県鹿港鎮)より埔里に至り、油、塩、その他日用品を鹿皮を始めとする森林産物と交換していた交易道であり、この為、清朝道光年間は水沙連古道は又「塩路」(塩の道)とも呼ばれていた。

水沙連古道はその後、呉光亮提督(清朝総兵)がそれまでの狩猟道然とした山道を整備・拡充、集集を起点に埔里まで開鑿した。集集から埔里までが同古道の南段を形成しており、現在の省道21号線はその段を襲い延伸・修築したものである。一方、北段は草屯から埔里までの段であり、現在の省道14号線に相当する。他方、東段は花蓮県まで至り、その出口は万栄郷であり、東段西側は現在の省道16号線(南投県名間郷名間〜信義郷丹大林道入口)に相当し、その後は丹大[孫海]林道に引き継がれる。東段は「千年古道」とも別称され、同古道上で東台湾産の玉石(翡翠か?)が発見されるのは、東西両側の原住民族が古来より交易を繰り返して来た証左である。

水沙連古道の多くは既に自動車道にとって替われており、この二坪山古道の一段は僅かに残された水沙連古道の生き残りである。
[案内板説明終り]

呉光亮提督に関しては、「八通関古道−4」等で紹介済み。又、水沙連古道「東段」は今現在は「関門古道」―台湾最後の秘境―と呼ばれる段であり、恐らく関門古道核心部を尋ねる機会はないであろう筆者が出来ることは、同古道東西出入口付近でお茶を濁す程度であろう。別カテゴリーを設け近い将来紹介予定だ。(続く)

posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 水沙連古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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