2015年03月21日

パイワン族秘道−74:トクブン社−5

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【写真説明】左写真は矢野駒太郎紀念広場の正面。同写真に写る案内板全訳は本文記事を参照。但し、特に第三段落、第四段落の後半は意訳が多く、本当に建立者の意図をきちんと使えられているかは大いに疑問。中央写真は碑本体正面、右写真は同碑裏側、剥落が激しく全文は読めない。「昭和七年」等の文字が確認出来る。

「矢野駒太郎紀念広場解説碑」案内板全訳([ ]内は筆者駐):
[全訳開始]徳文国民小学校(現三地門国民小学校徳文分校)は1914年[大正3年]創立、1923年[大正12年]の改制後、初代校長に赴任したのが、愛媛県出身の矢野駒太郎である。部落の古老の回想に依ると、矢野校長と部落民との感情の交流は非常に厚く、1931年[昭和6年]、任期中に矢野校長が病没した際、部落民並びに徳文国小の教師、生徒は同校長の貢献を讃え、1932年[昭和7年]に現有地に紀念碑を建立、紀念碑正面には「矢野先生」、裏には紀念碑文を刻んだ。

1914年創立の徳文国民小学校は、今年2013年で創立百周年を迎えた。民国3年(1914年)来百年、綿々とこの土地の子女を育んで来た;日本時代の理蕃政策に始まり、蕃童教育所、徳文公学校、国民小学校、分校、分班と変遷、更に分校へと再編されてきたが、この一世紀に渡る歳月と時代の変遷で、卒業生も各地に散り散りになってしまった。今年本校が百周年と云う慶賀を迎えるに当たり、過去赴任した教師、校長、事務員等を特別招待し、若かりし頃をもう一度思い返し、関係者一同の共通の記憶を紀念するものである。

創立百週年と云う特別な日を迎えるに際し、学校並びに部落民は、皆で安全で平坦な広場を共有出来るよう期し、初代校長矢野駒太郎紀念碑の前にその広場を設営することにし、緑地並びに階段、廊下の高低差を無くし、過去の写真を収集、解説文を含んだ説明板を設置することにより、過去の良き記憶を物語り、感謝と生命の故事を伝承する広場を造営した。この紀念広場とは別な場所、東西各々に樹齢百年になる鶏卵花[プルメリア]と台湾蘇鉄があるが、これらの成長を妨げず、且つ安全を考慮し、テーブルと椅子を配した休憩所を造営し、敷石と植え込みを配した。紀念広場とこれら休憩所は煉瓦を敷いた廊下で連結されており、校内の桜、桃の樹木の植え込みと巧みに組み合わされている。

本紀念碑は元々の歴史を掘り起こしたいという部落民の願望に感謝するものである。2008年4月26日、校庭の隅に遺棄されていた当該紀念碑を現有地に移設、再建立した。部落民を指導しこの再建立を自力で成し遂げた祖港先生には特に感謝したい。今、創立百周年の慶事を迎えるに当たり、交通部環境局茂林風景区管理処に対し、補助金を申請、本紀念広場を造営を可能にした答楽歌部落[部落所在未判明]産業協会へ深く感謝したい。又、県議会議員柯富国氏の奔走にも心から謝意を表したい。お蔭で、この生命、歴史回廊の設営は、学友並びに部落民に人文歴史と生態休憩を同時に享受出来る一空間を提供出来ることになった。

2013年10月26日、三地門国民小学校校長陳再興、徳文国民小学校創立百周年に当たり敬立。[全訳終了]

posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | パイワン族秘道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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