2015年03月14日

パイワン族秘道−73:トクブン社−4

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【写真説明】左写真は三地門国民小学校徳文分校の校舎正面、中央写真は日本時代のトクブン公学校の初代校長矢野駒太郎記念碑を背中から望み、現在の校舎との関係を示した。右写真は、現在は「矢野駒太郎紀念広場」と称される記念碑の正面写真。

徳文国民小学校に関する或る台湾新聞の記事を偶々目にしたのは、2005年に大学卒業以来働いていた会社を退職した前か、後か?は判然としない。日本時代に纏わる遺蹟が残っているという記憶に収斂され、何時かは一度探査すべきと頭の隅に引っ掛かっていながら、実際同校を訪ねたのは2014年6月である。具体的に何が残っているのか?その然る記事の内容の記憶は皆無だった。

三地門国民小学校徳文分校の校内に入ると筆者の目指すべき場所はすぐに判った。校舎の中央門から校舎を潜り、校庭を正面に見渡しながら目を左右に向けると右側の網膜が刺激された。校舎の端ではあるが、校舎に近接している場所だった。明らかに日本時代から引き継がれて来たのが判る紀念碑が堂々とこれも又日本時代の石柱に囲まれていた。

これほどの規模と遺蹟の残存状況の完全さを見せられると、当時から現存の位置にあり且つ綿々と保存されて来たのだと思い込んでしまう。石柱正面部に矢野駒太郎校長とその碑の解説板が矢野氏の写真と共に掲示されている。かなりの長文だったので、その場ですぐに読まなかた。今回トクブン社の記事を起こすに当たりその解説を丁寧に読み、前述の筆者の思い込みが全くの思い込みであることに気付かされた。そうだ―真面な扱いを受けてきた遺蹟、しかも日本時代のそれがニュース性を帯びるには、それなりの特殊背景があるのだ。(続く)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | パイワン族秘道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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