【写真説明】左写真は、新佳暮村から東側の旧佳暮村を望む。中央、並びに右写真は、旧佳暮のメインストリート、撮影は水曜日、正午、人気無し、但し、綺麗に清掃され、旧村のイメージからは程遠い。下掲写真は、廃校となった旧霧台国民小学校佳暮分校。尚、佳暮村位置については、左メニュー『古道俯瞰図』、「ルカイ族秘道→[1]」をクリック。
行政院原住民族委員会公式サイト『台湾原住民族資訊資源網』中、佳暮村のローマ字表記では「Karamumudesane」(カラモモデサン?)が充てられているが、この漢音訳が「佳暮」なのか?或いは、この部落を形成する二社、「Kabadanan」(カバダナ)と「Kanamodisan」(カナモデサン)のどちらかの漢音訳が「佳暮」に当たるのか?鄭安睎の『霧台、好茶古道与聚落研究報告書』でも判然としない。
新旧佳暮村が併存しているが、旧村は機能を停止しているわけではない。この新旧の関係、集落の形成過程に関し、『台湾原住民族資訊資源網』と『霧台、好茶古道与聚落研究報告書』では、まるで正反対と解さざるを得ない説明が為されている。
前者は、佳暮村紹介の冒頭で、「現在の新旧の区別は実は集落形成の歴史過程では新旧逆である」―つまり現在の新佳暮村が古く、旧佳暮村が実は新しいと説明している。約二百十年前、ブタイ社の頭目の長男がルカイ族の掟を破り平民の女性を娶った為、部落を追い出され、今の新佳暮の地に移り住んだ。その後九十年を経て(つまり百二十年前、日本の台湾統治が始まった頃に相当しそう)、新佳暮の地が手狭になったので、旧佳暮の地に移遷した、と紹介されている。
これに対し、『霧台、好茶古道与聚落研究報告書』では―民国71年(1982年)にカバダナ、カナモデサン両社が合併し、(旧)佳暮村が形成された。その後、集落が手狭になったので、民国84年(1995年)に新佳暮村の位置に移遷した、と紹介されている。実際、現在の新旧集落を訪ねてみると、新集落が明らかに新しい。
但し、『霧台、好茶古道与聚落研究報告書』の方は、前述の紹介に続けて、カバダナ、カナモデサン両社は(他の西ルカイ族部落に比べると)比較的晩期に形成されたと説明している。『台湾原住民族資訊資源網』で言及されていたブダイ社頭目長男の追放は、二百二十年前、カバダナ社跡に新社を切り開いたと紹介されている。更に、カナモデサン社の方は、百三十年前、カバララヤン社(現神山集落)から移遷し部落を形成したとある。以上の同資料の説明からは、元々、どちらの部落が、今現在の新旧どちらの佳暮村を占めていたのか?判然としない。いずれにしても両地を複数回往来しているように思われる。
ところで、両資料中の年次表記が、両者間で十年異なるが、これら資料の作成年次の違いであろう。即ち、『霧台、好茶古道与聚落研究報告書』の方が十年程度若い(実際は2009年10月刊行)。序に言えば、原住民族委員会公式サイトの情報は、更に十年前の資料に今だに依っているということになる。(続く)
【関連する記事】
- ルカイ族秘道−32:青葉村(タラマカウ社)
- ルカイ族秘道−31:カバダナ・カナモデサン社(佳暮村)−4
- ルカイ族秘道−30:カバダナ・カナモデサン社(佳暮村)−3
- ルカイ族秘道−28:カバダナ・カナモデサン社(佳暮村)
- ルカイ族秘道−27:タラマカウ社(達拉馬考:上大武東川巷)
- ルカイ族秘道−26:シデロウ社(徳労:下大武小山巷)−2
- ルカイ族秘道−25:シデロウ社(徳労:下大武小山巷)
- ルカイ族秘道−24:ラブアン社(大武村)−2
- ルカイ族秘道−23:ラブアン社(大武村)
- ルカイ族秘道−22:イラ社(伊拉)−2
- ルカイ族秘道−21:イラ社(伊拉)
- ルカイ族秘道−20:カバララヤン社(神山)
- ルカイ族秘道−19:ブダイ社(霧台)−4
- ルカイ族秘道−18:ブダイ社(霧台)−3
- ルカイ族秘道−17:ブダイ社(霧台)−2
- ルカイ族秘道−16:ブダイ社(霧台)
- ルカイ族秘道−15:キヌラ社(去露)−3
- ルカイ族秘道−14:キヌラ社(去露)−2
- ルカイ族秘道−13:キヌラ社(去露)
- ルカイ族秘道−12:シャデル社(阿礼)−4