【写真説明】大武村へ至るには、霧台、佳暮の各々から辿る連絡道があったが、後者はモーラコット台風で崩壊、今は霧台からのアクセスのみ可能。左写真は、霧台−大武連絡道から望んだ大武村全景、同写真右側集落が上大武(東川)、左側が下大武(小山)、写真手前の吊橋が、前回紹介した古仁人橋、上大武集落の左下に移る赤い線は、これも今年竣工した塔羅羅湾(タララワン)橋。右写真は、大武村下大武集落に至る今年竣工したばかりの古仁人橋。大武村位置については、左メニュー『古道俯瞰図』、「ルカイ族秘道→[1]」をクリック
前回、そして今回の【写真説明】のお仕舞いに、決まり文句―大武村位置については、左メニュー『古道俯瞰図』、「ルカイ族秘道→[1]」をクリック―と書いたのが、実際クリックして、同図右端に「大武」の文字は認めても、「ラブアン」というカタカナが見当たらないことを訝った読者はおられるかもしれない。
「ルカイ族秘道-9:谷川大橋」で現在の霧台郷行政区画名と日本時代の旧社名を対比させ、その冒頭に、大武村を持って来た:
[現在行政区画]、[現代社区名(日本時代社名)]
大武村、下大武(小山)(シデロオ)、上大武(東川)(タラマカウ)
ここにもラブアンの表記は無い。今まで紹介してきた集落の起源は、コツアボアン社からの移住だったが、ラブアン社の場合は、筆者の手元の鄭安睎著『霧台、好茶古道与聚落研究報告書』、行政院原住民族委員会版権所有『台湾原住民族資訊資源網』双方に依ると、ルカイ族の「最古老」集落の一つであるが、コツアボアンからではないことは確かなようだ。前者文献中、三六〇年前という数字あり、又オランダの古文献中にも社名ありとの記載もある。具体的な起源は、これら二つの資料の読みように依っては、コツアボアン社と同じ東ルカイ「大南群」のようでもあり、西ルカイの一群、霧台郷北側の茂林区「濁口群」のようでもある。前者の紹介の中で、移川子之蔵は大南社からの移遷と考えていたの下りあり。
ラブアン、又はライブアン社は現代台湾表記では、「來部安」或いは「來噴」を充てているが、現在の大武村の位置に移遷してきたのは、昭和19年になってからだそうだ。大正三〜五年製版の『五萬分之一蕃地地形圖』に出ているライブアン社の位置は、隘寮北渓を遥か東側に遡った殆ど同渓の源頭とも呼べる地点にある。集落を遺棄してから既に七十年になるわけで、この旧社へ辿る道が残っているかどうか?大武村を訪ねた際、聞き忘れてしまった。仮に最近まで残っていたにしても、モーラコット台風の餌食になったと想像するのが妥当かと思われる。
この終戦直後にラブアン社が移遷して来た地が、現在の上大武集落、タラマカウ(達拉馬考)社の原址とのことだ。ということは、その後、ラブアンとタラマカウとは混住したことになるのだが、前掲の二つの資料を何度読んでもその関係が判らない。タラマカウ社は、便宜上、今現在は上大武と呼ばれるが、これは、下大武に比べ隘寮北渓の僅か東側上流に位置するからで、この為、行政区画としては「東川巷」が正式地名である。
大武村の起源を纏まりのないまま書いている内に上大武の説明になってしまったが、次回記事からは、新ためて、下大武、上大武の順で紹介する。(続く)
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