【写真説明】これら二葉の写真は本文の記事とは関係ない。能高越嶺古道西段途中から撮影した能高山である。右側は「国家資料庫」のアーカイブに保存されているものを拝借した。昭和10年(1935年)撮影とある。それから70年後、偶々ほぼ同地点と思われる地点で撮影したのが左写真、当時と現在の古道とが同じコースを辿っていることの証左であろうか。尤も、思わずカメラを構えてしまう場所は今も昔も変わらないということだろう。
前回の記事に「七脚川は、佐久間台湾総督下の日本軍とアミ族との抗争である七脚川事件(明治41年)で名高い。靖国神社にレリーフがあるそうである。」と書いた。そもそも七脚川が何処にあり、七脚川事件とは何か?靖国神社にレリーフがある「そうだ」と書いたのは、私自身自分の目で確認したことがないからだ。「名高い」と書いたのは、上海事変に於ける「爆弾三勇士」のレリーフと共に並べられてあるぐらいであれば、少なくとも当時の日本人は知っていたであろうと推測し書いたので、全くいい加減な語彙の選択であったと思う。
まず、七脚川事件について解説した日本語のウェブ・サイトはどうも存在しないようだ。現代の日本人にはすっかり忘れ去られた日本軍と原住民族との武力衝突ということになる。明治41年は西暦1908年なので、来年で丁度百周年というわけである。日本軍と原住民族との武力衝突は当時の理蕃政策下では無数に起こった。日本の台湾領有五十年間の内、総督府は凡そ四十年を原住民族の武力平定に費やしたと謂われているぐらいだから、事件と呼ばれる原住民族対総督府の抗争、襲撃、戦死は極めて日常的であったようだ。
加えて、総督府がそれらの事実を国民に開陳していたとも思われない。「すっかり忘れ去られた」と書いたが、実際は総督府以外は知らなかったというべきだろう。読者の方がすぐに想起するのは牡丹社事件と霧社事件ぐらいだと思う。事情は台湾でも同じである。当時総督府はこの事件のことを単に「花蓮港蕃人暴動事件」と呼んでいたに過ぎない。
靖国神社に関心を持つ人はウェブ・サイト上で様々な形で自身の見聞、意見を公開している。それで幾人かは、靖国神社の二番目の鳥居脇の石灯篭基部に嵌めこまれた全レリーフの写真を掲載しているはずだと考え検索していたら出て来た。このサイトは靖国神社に限らず古(いにしえ)の東京を探索するには参考になると思う:
http://www.dentan.jp/yasukuni/yasuku09.html
このサイトの問題のレリーフの写真のキャプションは「台湾理藩:明治41年12月7日(七)脚川社討伐ニ際シ警官隊ノ戦闘」(キャプションは「七」が脱落、単なるタイプミスか、レリーフそのものの説明で「七」が脱落しているかは私は判らない)となっている。このレリーフが献納されたのは昭和10年(1935年)だそうだ。参考までに、霧社事件の勃発は昭和5年(1930年)である。
何故、台湾に於ける原住民族との武力衝突(原住民族の武力蜂起に対する鎮圧戦)がレリーフの題材として選ばれたのかはその理由が推測できる。靖国神社の公式サイトによると、「台湾征討」の戦死者1,130人も同神社に奉られているからである。では、何故、数ある「事件」の中から七脚川事件が選ばれたのか?これは私には推測が難しい。
ところで、上掲のウェブ・サイトとは別なサイトで同じレリーフの写真が掲載されており、その説明は「明治40年、義和団事件」(北清事変)となっていた。これだと舞台は台湾ではなくなるのだが、どちらが本当?又、上述のキャプション中では「警官隊ノ戦闘」とあり、他方私は日本軍という単語を使ってきたが、事件の経過から日本軍+警察で組織された討伐隊という表現が正しい。当時の台湾に於ける原住民族に対する総督府の武力平定の為の典型的な構成である。
七脚川(チカソワン)社は、現在の花蓮県吉安郷太昌村だそうだが、七脚川自体はもっと広汎に吉安郷一帯を指すアミ語の漢音訳である。花蓮市の北隣の吉安郷の中心部は嘗ての吉野開拓村である。吉安は戦後に改称されたものだ。七脚川は、現在でも山と川の名前で残されている。アミ族は居住する地域によって幾つかに区分されるそうであるが、花蓮市とそれに隣接する南北部一帯に居住するアミ族は南勢アミ族と呼ばれ、アミ族居住地の北限とされており、七脚川社は嘗てこの南勢アミ族の最大集落であったという。勃発から七脚川社の総督府への帰降まで三ヶ月に及んだ事件の原因と経過は単純なものではなく、又、戦場となった範囲もかなり広範囲に及んだ。それに続き日本人が開拓民として同地に大挙して押し寄せた後のアミ族の困窮は想像できると思う。
実は、七脚川事件が台湾、とりわけアミ族の間で話題になり出したのはどうも昨年辺りからのようである。アミ族が主宰するウェブ・サイトを覗いてみると、「七脚川事件って聞いたことある?そんな事件、知っていた?」「聞いたことないな、牡丹社事件と霧社事件なら教科書にも出ていたけど、七脚川事件って習った記憶がない。」というような書き込みが目立つ。
昨年(2006年)二月の自由時報社のニュース(「塵封近百年 七脚川原民抗日史重視」、「七脚川百年記念会 後年挙弁」)と、二冊の新刊(「七脚川事件写真帖」と「原住民重大歴史事件−七脚川事件」:どちらも国史館文献館出版)が切っ掛けになったようだ。私はどちらの新刊も未だ見ていないが、「七脚川事件写真帖」は日本時代に発刊された写真集の復刻版かそれに近い形をとっていると思う。因みに、国家資料庫のアーカイブを探してみたら、七脚川事件関連の写真四葉が掲載されている。(終わり)
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なお、吉野村に関することは’05年の台湾光華雑誌で読んだことがあります。
地図を見ると、七脚川山の北を通って嵐山山地鉄路立霧渓線(停用)、それに続いて更に奥に向かって嵐山山地鉄路太魯閣主線というのがあり、木瓜渓を挟んで反対の南側には[口合]崙鉄道というのがあります。しかも見事に二つの線とも略2,000mの等高線を通っています。この線路はなんですか?木材の切り出しのためかななどと思いますが、よく分かりません。さらに、何で略2,000mなのでしょう?
私は新竹県関西鎮で小さいゴンドラが空中を移動している(たぶん動いていた)のを見たことがあります。地図を見るとたぶんそこであろうと思われる場所には亜泥空中覧車とあって直線です。ですからそれとは違うと思いますが。
私の記憶が正しければ、台湾のあるテレビ局では七脚川周辺を取材して事件に関する番組を今年放送したはずです。その際、部落の古老のインタビューも行っていますね。ただ、テレビですから必ず番組制作者の意図、大なり小なり政治的な色合いが混ざりますので、番組をどう受け止めるかは、どんな番組にしろ注意しなければならない部分ですが。百年も経てば、実際何が起こったのかを正確に知ることは難しい、その当時記録を残した者があれば、記録を残したものが「勝ち」ということになります。
台湾は平地でも山地でも廃棄鉄路が多いですね、前者はサトウキビ、後者は主に木材です。山地の廃棄鉄路を辿る人はいます、古道歩きと同じですが、それらを網羅した資料にはお目に掛かったことがありません。日本にも台湾の鉄道にも興味を持つ鉄道マニアは多いと思いますが、山中奥深く捨て置かれた木材運び出し用の鉄路まで追い駆けている人がいるかどうか?花蓮県万栄郷の林田山は近年つとに有名ですが、ここの廃棄鉄道もどこまで入れるのか?よく判りません。まあ、私の場合はこれらも古道の一つなので興味があります。相当標高の高い場所まで鉄路を通しましたので、そこら辺りを歩くとなるともう登山ですね。先般、花蓮県の瑞穂の奥にある紅葉温泉(台東にも同名の著名な温泉があります)に立ち寄った時に、そこから山奥に鉄路が伸びていたはずなのですが、誰に聞いても知りませんでした。あれ、私間違ったのかなと思ったのですが。どのくらい荒廃しているか確認する積もりでしたが、入り口が判らないとどうしようもありませんね。(終)
いやいや灯台下暗しでした。「台湾国家歩道」のサイトから「区域歩道」→「花蓮林区管理処」を選ぶと、これらの鉄路の詳しい案内がありますね。全然気付きませんでした。アドバイス有難うございました。(終)
以前、今の台湾山地にある〇〇山荘は景色にそぐわないと書きました。ではどんなのが良いかと言うことを考えた時、ずいぶん前に友人に聞いたことのある『石板屋』というのがず〜っと浮かんでいました。ただ、それがどんなものか部分的な写真などは見たことがあっても全体像が分かりませんでした。今回写真集《鳥瞰台湾山》の中にイラストがあってそれがわかりました。この石板屋なら風景にしっくり来ると思いますし、環境的にも良いのではないかと思います。それにこの家はパイワン族のものと思っていましたが、ブヌン族も同じようなものなのですね。建築技術もまだ大丈夫でしょうし、これなら泊まってみたいと思います。
私も調べてみましたが、「嵐山山地鉄路」で検索してしまうとその周辺への入り方を説明したサイトはありませんね。但し、タロコ国家公園のサイトの中に、合歓山越嶺古道の踏査記録があり、この中に出てきます。この踏査記録は国家公園管理処による委託事業の結果ですので大部のものです。佐久間山(佐久間総督に因む)等に登る為に利用する研海林道から入っていくことになります。それで、「研海林道」で検索すると山行記録が出て来ます。タロコ山(台湾百岳)へはどうアクセスするのだろうか?などと以前不思議に思っていましたが、この研海林道からアクセスするのが一般的なようでこれは私にはいい情報でした。ありがとうございます。これらの山行記録では「嵐山工作鉄道」等の名前で出ています。
台湾の山の場合、登山道、山荘の構造はよく議論されていると思いますが、私に言わせれば、同時に、一般の登山者の観点から一番問題になるはずのトイレにも関心を払って欲しいというのが希望です。景観の問題、環境汚染(地下水)の問題、現状を考えると難しい問題です。日本も同じですが。コストの問題もあります。台湾の山荘の殆どは、一部を除き日本人がイメージするようなトイレは殆ど無いと考えた方が無難です。これは心して掛からなければなりません。(終)