2007年05月04日

能高越嶺古道−7

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【写真説明】能高越嶺古道東段の実質的な入口となる銅門発電所。右写真は、同発電所内にある日本時代の銅門駐在所跡と思われる遺構。銅門はタロコ族群の村落、花蓮市から少しばかり南下し、木瓜渓を渡るとその付近では有数の観光スポットである鯉魚潭のすぐ北側にある。

これまで紹介してきた古道は南華山(能高山北峰)と能高山を結ぶ稜線の最下点(鞍部、又は峠)を乗り越すまでの部分、即ち中央山脈の西側(西段)のみである。古道は峠を越えて延々と花蓮まで降りて行く。越嶺道という限りにおいては、この花蓮までの東側、即ち古道東段も歩いてみなければ完全ではない。残念ながら現在まで東段を歩く機会に恵まれずにいる。

一つは東側に降りていった後、どうやって花蓮まで出て、更に高雄まで戻ってくるか?という問題がある。古道歩き以外の部分で余りにも時間と金が掛かり過ぎるのである。逆に東側から入っても問題は同じである。更に東側から登るとなると、少なくとも標高差1,500メートル(西側の場合、登山口と古道最高点の標高差はその約半分)をてくてくと登り詰めなければならない。

実際、東側から古道を辿る兵(つわもの)は今は殆どいない。大部分は西段の往復か、時間に余裕があれば、東側に降りる。林務局発行の地図にも、本古道歩きの推奨コースに東側から入るコース時間は示されていない。いずれにしても、能高越嶺古道東段は私の夢のコースの一つであるので気長に機会を待つことする。

東段は、最終的には太平洋に流れ込む木瓜渓沿いに開鑿された。木瓜渓は、太平洋岸近くでは、吉安郷と寿豊郷との境界を流れる。現在木瓜渓沿いには八つの発電所と三つの保線所があり、これら発電所と送電線を管理する為の道路は嘗ての能高越嶺道を襲ったものである。能高越嶺道は、日本時代は「初音」を起点としていたという説明を見たことがある。戦後は、「初英」、その後「干城」へと変わった。初英の地名は今でも山と発電所の名前として残っている。初音駅は、日本時代も現在も花蓮駅の南側最初の駅である。現在の駅名は何故か「嘉義」だ。

私の手元の地図を見ると、当時の越嶺道は、七脚川→初音→タモナン(現在の文蘭)→銅門の順で駐在所を設置し、その後峠にある能高駐在所までの間に11箇所の駐在所を配してある。七脚川は、佐久間台湾総督下の日本軍とアミ族との抗争である七脚川事件(明治41年)で名高い。靖国神社にレリーフがあるそうである。

東側の入口の様子だけでも観察しておこう銅門まで入ってみた。花蓮から南下する東海岸側の幹線は省道9号線である。この9号線は9号丙線という支線があり、これが省道14号線と繋がりそのまま木瓜渓に沿って西側、つまり中央山脈側に遡行する。即ち省道14号線は能高越嶺道東段そのものである。但し、9号丙線が14号線に替わる付近にある銅門で入山証を提示しなければならない。その意味では銅門が現在の古道の実質的な入口ということになる。その後、普通車でどのくらいまで溯れるのか判らず、これが実は東側から古道に入ることを躊躇させている理由の一つであるが、14号線の殆どが台湾電力の管理下にあるので、相当奥までは入り込めそうである。

銅門(ムクムゲ社)はタロコ族群の街である。私が訪ねた時は派出所の駐車場にテントを張らせて貰った。その派出所の横に銅門国民小学校があり立派な楠が何本かあった。この小学校のウエブ・サイトを見ていたら、国民党接収前後の経緯が詳しく書かれており日本人最後の校長の名前が出ていた。日本時代の蕃童教育所がその前身であったことが判る。その先には、発電所、正式には台湾電力東部発電廠銅門発電廠があり、ここの敷地が嘗ての銅門駐在所跡であったようだ。(終わり)
posted by 玉山 at 21:55| Comment(6) | TrackBack(0) | 能高越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
兵庫県明石市在住の松浦と申します。
興味深くブログを読まさせていただきました。
私は花蓮をベースに過去4回ほど台湾を訪れています、駅裏のレンタルバイク屋で125CCのバイクを借りて銅門から最初の発電所 能高山超古道の看板から
バイクの距離計で25Kmほど山に入って見ました、ハンディータイプのGPSでは標高1500mを表示していました。まだバイクで走破できそうな道は続いていましたが午後3時になってしまったので引き返した次第です。とにかく道路の状況の情報がありません。花蓮と吉安の警察で聞くと解らないので駅のツーリストインフォメーションに聞いてくれとのこと、インフォーメーションでは峠まではバイクで行けないので後は歩いて1週間で櫨山温泉に行けるとのこと。銅門派出所では峠までバイクで走行可能で峠から歩いて3日で櫨山温泉に出ることができるとのこと。
銅門ゲートの先のタロコ族の食堂のおばさんに聞くと以前アメリカ人がMTBで早朝櫨山温泉を出発してその日の内に銅門まで来ているとのこと、いずれにせよ次回は機材を整えてバイクでどこまでいけるものかチャレンジして見たいと思っています。
Posted by 松浦一広 at 2009年03月01日 15:03
松浦様;

実におもしろいコメントありがとうございます。

松浦さんの話で判る事は、松浦さんが質問した相手の誰もが実際古道を歩いたことがないということです。これは私も経験的に知っており、例えば、古道に入るに入山証を要求する派出所の署員の多くが、その先を知りません。とにかく、危険この上ないとしか言わないわけで、私はそんな話を正に半分しか聞かないことにしています。

能高越嶺古道は、古道である前に現実として中央山脈越えの台湾電力が管理する高圧電線保線道路で、簡便な交通手段で常時往復出来ることが条件です。台風が来て古道が崩壊しても、保線道路としての機能を中止するわけにはいきませんので、すぐに補修されます。その為の小型ブルドーザーが古道上に配置されています。

台湾電力社員、今の不況下では誰もが羨む公務員ですが、通常はバイクでこの古道を文字通り走り回っています。松浦さんが借りた125CCのバイクであれば、全線バイクで走れますので、バイクなら銅門から盧山温泉まで半日で抜けられるはずです。尤も私も東段を歩いたことがありませんので、想像です。

峠、つまり古道最高点から、東段二つ目の保線所である奇來山荘(標高約1,400メートル)までの下りは歩いて5〜6時間の距離です。他方、西段側は古道最高点から登山口までの下りは4〜5時間ぐらいの距離。全線を歩くとなると成る程二日(但し、西段登山口から東段奇來山荘間を歩くというのが条件で、両側起点に立つまでの時間は考慮外、東段を銅門まで歩くと話は別、叉、逆に東段から西段に抜けるとなると更に行程は長くなる)掛かります。

登り、下りの険しさはありますが、奇來山荘〜屯原登山口間の距離は27キロしかありません。125CCのバイクなら快適なはずです。但し、台風の後は避けるべきです。(了)
Posted by 玉山 at 2009年03月03日 21:57
コメントをありがとうございました、次に挑戦する糧になりそうです、結果は報告させていただきます。
Posted by 松浦 at 2009年03月06日 22:31
西豊穣様
私の叔父・上野政人が終戦当時、洞門小学校の校長だったらしい?です。昭和15年の職員録に筆頭で掲載されています。
西様のこの記事の最後に、「洞門国民小学校のウェブサイトに、国民党接収前後の経緯の中に、日本人最後の校長の名前が出ていた」と書いて居られますが、このウェブサイトを見る方法を教えた下さい。
本年5月に、現地を訪ねようと思いますので…
また、出来れば、いろいろ教えて頂きたいと思いますので、宜しければ、西様の連絡先を、お教え下さい。
私・加藤春千代の住所等;
〒253-0055 茅ケ崎市中海岸2-4-2
TEL:0467-83-1077 FAX:0467-85-8160
Posted by 加藤 春千代 at 2016年01月14日 09:58
加藤春千代様;

メッセージいただきありがとうございました。又、返事が遅れ大変失礼を致しました。

私自身ネット検索で銅門国民小学校のサイトにアクセスし再度調べてみましたが、サイト内に加藤様お探しの情報は掲載されていないことが判りました。今現在当該サイトは花蓮県下の教育機関を統合したサイト下にあり、どの小学校のサイトも統一されたフォーマットを使用しており、加えてサイト内の資料にアクセスするには、パスワードが必要で、生徒を含む学校関係者で無いと入れない仕組みになっています。以前は、銅門小学校独自のサイトがあったはずで、私が見たのはその当時、もう十年ぐらい昔の話です。

台湾サイト内で同小学校の歴史に触れたのは二つしかヒットせず、以下の下りのみです:

中央山脈奇萊山腳下的銅門國小創始於民國五年四月舊名『霧克母岳乙種番童教育所』台灣光復後,氏國三十五年一月由日本籍所長山本房雄先生將校務移交。同年二月李安蘭先生受命接掌校務,為光復後第一任校長,校名也改為銅門國氏學校,一直到民國五十七年九月實施九年國教,才改為銅門國民小學。校內兩棵百年老樟樹見證了這段歷史。

この中に出てくる山本房雄所長(戦前は教育所でしたから校長ではなく所長)が最後の日本人校長で、戦後同校の台湾への引き渡しを行ったようです。

今現在はこのくらいの情報しかありません。同校の今現在の校長先生に直接問い合わせのメールを出してみましょうか?

私への連絡は、上のメールアドレスにお願い致します。お役に立てず申し訳ありませんでした。(了)
Posted by 西豊穣 at 2016年01月24日 09:29
西豊穣様
銅門小のサイトに関するコメント有難うございました。叔父・上野政人は、昭和15年度・1年間だけ、同校の校長で、昭和16〜20年は、林田国民学校・林田青年学校・林田女子青年学校の校長を兼務して居ました。(台湾総督府職員録による)上野は、大正11年〜昭和20年(1923〜45)22年間に、7ヶ所の小学校・公学校・青年学校等の教職を務めました。
来る19日、日本を出発し、23〜26日に、花蓮市に滞在して、銅門や林田ほか各学校跡などを廻る予定で、現地の吉井和哉様に、いろいろ教えて頂きます。西様お気付きの点がありましたら、ご助言下さい。なお、西様の(上記の)メールアドレスが判りません。再度お教え下さい。
Posted by 加藤 春千代 at 2016年05月01日 14:27
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