【写真説明】左写真は大水窟駐在所の古道に接した部分、即ち駐在所入口方面から見た駐在所を囲む石塁、同写真奥の石塁に人の字型の組み合わせが顕著に見て取れる。中央写真は、曾ての避難小屋、完全に倒壊していた。日本時代の遺構にあらず。右写真は左写真の入口とは間反対側に設けられた石塁中の門。下掲左写真は、大水窟駐在所跡の慌ただしい踏査を終え大水窟に戻る途中で振り返った駐在所跡付近と東進する八通関古道。同写真の稜線奥に顔を覗かせているのは新康山。下掲右写真は、大水窟−大水窟駐在所間にある里程標。「托馬斯」まで9キロとあるが、実は、大水窟駐在所とトマス(ブヌン語で熊の意)駐在所間には、更に四つの駐在所(ミヤサン→マサブ→ササラビ→マシサシ)が配置されていた。二キロ弱の間隔であり、この距離の短さ=駐在所の多さは、八通関越嶺道路東段の一大特徴だ。
前日は土砂降りの中、大水窟山屋に到着したが、翌日は予想していたように晴れた。その日は、古道を逆戻り、観高登山センターまでの長駆を予定していたので、我々のガイド、小綿羊から大水窟駐在所踏査往復に与えられた時間は、六時から半時間のみ。片道約十五分、1キロの距離なので、僅かに下りに掛かる古道を駆け足で急いだ。途中道を踏み誤ったと思う程に遠い気がしたが、現場に着いた。曾ては避難小屋が存在したという知見は無かった。
かなりの枚数、駐在所跡を撮影したと思っていたが、後で確認したら、え、本当にこれだけ?と思うぐらいに少なく、且つことごとくピンボケ。踏査を終えて小屋に戻る途中でやっと日の出になったので致仕方無い。こうして、念願の八通関古道西段の踏査を終えた。
筆者は八通関越嶺道路上の駐在所最高点(標高3,150メートル)、大水窟駐在所を以て、古道の東西分岐点と書いてきたが、実際は、州廳界(同3,200メートル)を分岐点とするのが慣わしのようだ。楊博士の西段レポートは、州廳界の踏査で終えているし、最も完全な八通関古道東段の解説書である玉山国家公園管理処発行の『八二粁一四五米』(82.145キロ、日本時代開鑿時の東段全段の距離)も、州廳界まで紹介してある。(終り)
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