【写真説明】日本時代の台中州と花蓮港廳の「州廳界」を三枚掲載した。左写真は、中央奥に大水窟山屋を配し、左側が完全に干上がった大水窟池、右側手前が、州廳界跡、要するに階段である。中央写真は、その階段の細部。右写真は、背中を見せている筆者のすぐ右腕を伸ばした辺りの草原の中に引っ掻き傷様のものが見えるが、清代営盤跡。下掲左写真は、大水窟避難小屋越しに望む大水窟山東側稜線、頂上は見えていない。右写真は避難小屋内部。基本的に、中央金礦山屋と同構造。
大水窟駐在所が何故日本時代開鑿の八通関古道の東西分岐点に便宜上なっているか?は既に何度か説明した。同古道の最高点(標高3,150メートル)であることがその一つの理由だが、もう一つは、当時の(そして現在も)行政区域である、台中州と花蓮港廳の境界付近に設置されたからだ。
この州廳界は、現在の行政区画にそのまま受け継がれ、南投県(信義郷)と花蓮県(卓渓郷)の県境を形成する。日本時代は、この州庁境界に冬季三箇月を除き検問所が設けられ、ここより約1キロ東側に位置する大水窟駐在所の所員が詰めていたと楊レポートにある。
ところで、読者には「州廳(庁)界」というのは見慣れる単語かと推察するが、実は本ブログの初期投稿の中で取り扱ったことがある。「浸水営古道−3」を参照して欲しい。当時の投稿では、高雄州+台東廳の「州廳界」を紹介した。
その検問所(当時撮影された写真に写る涼亭がそれか?)は、大水窟池南側の土手上、幅13メートルの四段の階段として設けられており、そっくりそのまま残っている。高さが4メートルある土手なので、筆者が大水窟池+避難小屋に到着した時は薄暗く加えて雨が降っていたが、見逃すことはなかった。
州廳界跡+大水窟池+大水窟山屋+清代営盤+大水窟駐在所跡の五点セットが筆者の目指すもので、事前にそれらの位置関係を全く調査しておかず、現地で慌てて確認した。その内、前四点が、大水窟池を囲むように位置しており、駐在所跡のみが、古道を更に約1キロ、15分程度東進した位置にあることを確認した。
薄く水を湛えた大水窟池と大水窟避難小屋とのメルヘンチックな取り合わせの豪華写真は台湾のメディア内に溢れているし、当日は、大水窟山頂上から避難小屋まで土砂降りの中を駆け降りている状態だったので、すぐにそれと判る池が全く干上がっているのを目撃してもがっかりなぞしなかった。とにかく小屋に辿り着き暖を取るというのが最優先の状態だった。
結局、清代開鑿の開山撫蕃道と日本時代開鑿の警備道が完全に交叉するのは八通関と大水窟の大草原に於いてのみである。大水窟から清代開鑿道は東進、日本時代開鑿道は南進することになる。(続く)
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