2014年07月12日

八通関古道西段-21:秀姑巒駐在所

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【写真説明】左写真は、八通関古道西段の入口、東埔温泉から辿れば、通常の二泊目の帰投地となる中央金礦山屋。中央写真はその内部の様子。右写真は、小屋外に設けられたエコ・トイレ。屋根は無いが、地上より一段高く設けられており、用足し中に覗かれることは無い。用足し後は腐植土を投入するよう薦められている。

バナイコ避難小屋から八通関古道上の次のマイルストーンである中央金礦山屋までは僅かに3キロ弱の距離である。バナイコ小屋と同じように、中央金礦山屋が建つ現地を曾ての秀姑巒駐在所跡地として特定するのは間違いでは無い。鋼鉄製の山小屋の前を鮮烈な小さな沢が流れ込んでいるが、この沢を境に向かい側の笹藪の地に旧駐在所があったと楊南郡レポートに謂う。

この秀姑巒駐在所跡地は、八通関古道と台湾中央山脈最高峰、秀姑巒山(標高3,805メートル)方面への登山道との分岐点で、東埔温泉を早朝に出発すれば、一泊目が観高登山センター、二泊目がここ中央金礦山屋というのが定番の山行スケジュールだ。今回は、筆者の油断(酷い二日酔い)もあり、この定番スケジュールには載らなかったが、それでも、夜中の八時前にはなったが、二泊目の宿泊地たる中央金礦山屋に辿り着いた。

「金礦」と云うからには、そもそも同地は金が採取されていた過去があったということだ。実際、日本時代は、秀姑巒金礦と呼ばれ「著名」な金鉱だったそうだ。戦後も経営が継続していたのかどうか?そうだとすれば何時まで?そこら辺りの産業史は台湾のサイトをざっと覗いたが、日本時代開闢、台湾近代鉱業史の一ページという情報以外、容易には行き当らない。現地の案内板には或いはその辺の簡単な紹介があるのかもしれないが、今回の山行の際も注意を怠った。

因みに、この金鉱後から秀姑巒山を目指すと、標高差600メートルの高地に更にもう一つ、白洋金礦山屋が、やはり沢横にある。こちらも曾て日本時代に経営が開始されたものだ。筆者の手持ちの市販地図では判然としないが、どちらの沢も、荖濃渓源頭を形成している支流のようだ。荖濃渓は、最後は高雄市−屏東県境界を形成する高屏渓と合わさり、台湾海峡へ注ぐ。

金鉱に関連した台湾近代産業史と言えば、新北市瑞芳区九份が良く知られているが、台湾百岳との関連で云えば、最も著名な金鉱産業遺蹟は、合歓山と屏風山の鞍部、タッキリ渓谷上流のそれだ。何時か「台湾百岳」のブログの方で紹介する機会があると思う。

2006年に秀姑巒山を目指した時も中央金礦山屋には宿泊、当時既に今に見る鋼鉄製だった。又、白洋金礦山屋の方も立派な山小屋だった。ところが、当時、不思議と云う他ないのだが、どちらも撮影していない。そういう経緯があるので、今回掲載した写真は、八通関古道上の駐在所跡というより中央金礦山屋そのものの紹介に替えた。(続く)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 八通關古道-西段 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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