【写真説明】左写真は南華山稜線から霧社方面を望んだもの。写真では少々判り難いが白い雲の下当りの白い粒粒が町々である。同写真右の山肌を天池山荘に至る古道が走る。写真右下の白い部分が天池山荘と広場である。中央写真は、天池山荘から南華山稜線に登り切った所にある天池(池塘:写真やや右下の白い部分)。すっかり干上がっている。右写真は中央山脈を横断する高圧電線架。同写真下方に稜線を東側(花蓮側)に下っていく古道が見える。稜線最下点に小さく送電線完成を記念した蒋介石の筆になる「光被八表」の石碑が写る。写真の一番奥の尖峰が能高山。
霧社事件の舞台となった霧社自体もう既に相当な高所に在る。但し、雲海保線所、天池山荘まで来ると霧社の街は遥か雲のかなたの下界であることが判る。
当時、現在の天池山荘の地にあった能高駐在所から能高郡役所の分室があった霧社までは毎日報告書の提出が義務付けられていたそうだ。毎日報告書を携え霧社との間を実際往復していたのは原住民であり、警備道上に設けられた駐在所員の食料等の生活物資の運搬も原住民によって賄われていた。よくぞこんな所まで道を付け駐在所を置いた先人たる当時の日本人の艱難辛苦は、総督府の鬼気迫る原住民支配の裏返しであろうが、実際警備道造成、整備に徴集・使役という形で携ったのは原住民だった。自分達を管理・支配する道具を自分達自身の手で作らされていた当時の原住民の苦しみ、悲しみを想像するのは支配者たる当時の日本人には非常に難しいと思う。
平坦で寛い快適な今は国家歩道たる古道の裏にはそういう歴史が有る。問題は当時も今も原住民の置かれた社会的環境というのは余り変わっていなにのではないか?ということである。読者の中には霧社まで足を延ばされたことがある方も多いかと思う。もし今後霧社方面へ行かれる機会があれば是非この古道まで足を踏み入れて欲しいというのが私の希望である。
霧社から中横を逸れて古道入口までは約20キロぐらい、体力に自信が無ければ雲海保線所までだけ(往復約三時間)でも十分に古道歩きを満喫出来るし、台湾の主要都市から早朝に出発すれば日帰りが可能だ。唯一注意する必要があるのは、「歩道」と雖も現代人にとっては今や立派な「登山道」(例えば、東京-山梨間の旧青梅街道の大菩薩峠をイメージ)であり、予め入山証を取得するよう義務付けられていることだ。(メルマガ「台湾の声」2005年1月6日掲載分の一部を改編:終わり)
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