2014年04月19日

淡蘭古道−21

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【写真説明】左写真は台湾鉄道頭城駅前の「開蘭第一城」の石碑。その意味は本文記事参照。中央写真は頭城市街地内のアーケードと「亀山朝日」の写真。右写真は、頭城老街内で見付けた。

20回に渡り掲載してきた淡蘭古道シリーズをこのまま終りにしても良かったのだが、画竜点睛として一つだけ付け加えることにした。

再開発された頭城老街内に掲示されている「頭城老街地図」の内の一枚に「開蘭第一城」(蘭陽平原に開かれた最初の町)の説明がある。以下拙訳である:

『頭城鎮志』、『続修頭城鎮志』、当地の古老、歴史家等の口伝に依れば、頭城では「城牆」(城壁)は築かれたことは一度も無い。にも拘らず「城」と呼ばれたのは、福建漳州人、呉沙が雪山山脈を越え、蘭陽平野に至り、当地の開墾を開始、農場を拓き、土囲(粘土・石積の囲い)を築き、最初の漢人集落を形成、それを「頭城」と呼んでいたことに起源する。その後、呉沙の開墾事業は南下、形成された集落は順に「二囲」、「三囲」、「四囲」、「五囲」と呼ばれた。

「五囲」が現在の宜蘭市に相当する。

呉沙は、台湾の東海岸開拓史、並びに淡蘭古道史には必ず登場する著名人、蘭陽平原の開発は彼が率いた開墾団を嚆矢とするのは、上記翻訳文で大凡判ると思う。ウィキペディアにも紹介があるが、簡体中国語版しか無い。その冒頭の案内の拙訳は以下の通り:

呉沙(1731年〜1798年)、福建省漳州漳浦県人、閩南・客家人約二千人を率い、武装して陽蘭平野に入墾、漢人に依る最初の蘭陽平原の全面的な開墾を成功に導いたリーダー。但し、開墾の過程で当地原住民族(筆者註:平埔族クバラン族−[口葛]瑪蘭族)と衝突、当該原住民の流出、南遷を招くことになった。

呉沙の名は、現在でも礁渓郷呉沙村(同郷と宜蘭市境界付近)として彼の旧居と共に残る。墳墓も新北市貢寮区澳底に現存、員山郷内員山公園内には呉沙記念館もある。。。これらのことは今回の記事を起こすに当たり知ったことであり、筆者はつい先日も当地で食事する機会がありながら素通りしている有様だ。

さて、「淡蘭古道−15」の記事最下段に、「頭囲」は日本時代の「頭城」という説明を加えた。つまり、戦後に「頭城」という地名に改変されたと単純に考えていたのだが、上記掲載の案内板を翻訳している際、現在の頭城は元々頭城と呼ばれており、その後、頭囲、更に戦後頭城に戻されたのではないか?と勘繰り、安倍明義『台湾地名研究』(中文版)の「頭囲」の部分を見てみた。すると、まず「頭囲(頭城)」と記載されている。以下抄訳(元々は日本語のはずだが)である:

嘉慶元年、閩南漳州人呉沙が宜蘭を開拓した際、最初に開いた農場、居住地を含む開墾集落の名「頭城」に由来する。その後清朝台湾府[口葛]瑪蘭庁が築城するに至り、「頭城」の「城」の単語を控え「囲」に改変、その後再び「頭城」に戻した。

ということで、淡蘭古道紹介は一旦締めることにする。(終り)
posted by 玉山 at 00:00| 台北 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 淡蘭古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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