2007年04月14日

能高越嶺古道−4

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【写真説明】能高駐在所跡地にある天池山荘とその近くに残る日本時代の弾薬庫。当時は神社もあった。今は、観光局、林務局、南投林区管理処の共同管理となっている山荘は元々は台湾電力の天池保線所。山荘前は広場になっており、休日はハイカーのテントで埋まる。この写真は2004年当時のもので、その翌年100人ぐらいが宿泊可能な一大山荘を建てる計画が発表されたが、今現在でも工事は始まっていないようだ。毎年台風の度に古道西側は崩壊を繰り返している為だ。2005年には鉄砲水による土砂崩れでハイカーの遭難・死亡事故も発生した。山荘の標高は2,860メートル、能高越嶺古道の最高点である。古道入口の標高が2,000メートル少しなので、この間の標高差は800メートル、他方距離は13キロあるので、この古道の勾配は緩やかである。尚、天池と呼ばれているのは、この山荘の上部、能高・奇莱連峰稜線上に池塘(ちとう)が存在するからである。

霧社事件縁(ゆかり)の地であり、日本時代の遺構が残っている事が、機会があれば皆さんにこの古道を歩いて貰いたい二番目の理由である。

古道自体は無論日本時代の遺構の一つになるが、この能高越嶺道も含め警備道をベースにした現在の古道上には当時設置された駐在所の遺構が何等かの形で残っている。但し、当時の建物そのものが残っているケースは非常に少なく、大概はちょっとした平坦地になっているとか、石垣が残っていたりとかで当時人が生活していた事が想像出来るのみというのが普通だ。それらは地図上には「遺址」(遺跡の意味)として今でも記載される場合があるが、当時の駐在所跡をすべて網羅しているわけでもなく、又、現場に何等かの表記・表示が有る訳でもない。中には有志の方が樹木上にプラスチック、金属のプレート等で表示してくれているケースもあるが例外だ。

能高越嶺道の場合、現在古道として残されている沿道にも相当数の駐在所があったらしいが、ハイカーが確認出来るのは、西側では台湾電力の雲海保線所(「保線所」とは送電線管理所の意:古道入り口から約5キロで当時の尾上駐在所)と天池保線所(古道入り口から約13キロで当時の能高駐在所)のみである。但し、これらの保線所の建物も既に建て替えられており、当時の具体的遺構は、前者の場合、保線所裏の貯水槽、後者の場合、銃火器貯蔵庫(と思われる)のみになっている。

又、屯原と雲海保線所の間に「富士見」、両保線所間に「松原」と呼ばれた所があり、駐在所があったのだが場所を確認出来ず、代わりに松原付近と思われる所に炭焼き窯跡(松原木炭窯遺址)が残っているのを確認出来たが、注意しないと見落としてしまう。一方、東側の檜林保線所は当時の駐在所(東能高駐在所)の建物を今でも使っているという稀なケースだ。

霧社事件の勃発とその後の鎮圧戦の舞台となった場所そのものは現在残されている古道上ではなく、現在の霧社一帯を中心とした地域と思われるが、現在の天池保線所である当時の能高駐在所は事件後、最も東側に鎮圧部隊が配備された場所である。(メルマガ「台湾の声」2005年1月6日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
posted by 玉山 at 10:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 能高越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
天池保線所(当時の能高駐在所)が霧社事件時の最も東側の鎮圧部隊配備地区だったとの事、そんな遠くまでとびっくりしました。そこは直線距離で霧社から15、6`で、そこより高地の東側は居住地はないようですし、何故そこに配備しなければならなかったのでしょうか。私は戦略的なことは全然わかりませんが、逃走防止?などと考えます。更に、部隊をそこに配置するためには、警備道以外の地理にも明るいであろう原住民族の地域を通ってそこに行かなければならない困難もあったであろうと思われますが、どうだったんでしょうね。

連峰稜線上に池塘があるとのことですが、何処のあたりですか?塔羅湾渓が天池山荘付近とその東側で古道と交差していますが、それらの水源のあたりですか?また、台湾は褶曲で出来た山脈であり、カルデラ湖などはないように思いますが、池塘はどのようにして出来たのでしょうか?台湾は岩が脆いので、崖崩れで堰き止められてなどとも考えてみますが、分かりません。
Posted by メイウェンティ at 2007年04月16日 00:34
メイウェンティさん;

その通りですね、例えば、モーナ・ルダオ出身のマヘボ社(盧山温泉)からだと高度差も相当あります。古道から眺めた夜の霧社の灯の写真を掲載しましたが、この写真では地形がよく判りません。後のブログで写真を掲載しますが、山荘上から昼間同じ方向を眺めると、霧社事件の舞台は本当に足下に俯瞰出来ます。逃走防止というより挟撃の為の基地としてはいい位置にあるのではないかと思います。

台湾高山中最も美しいと言われる草原(笹)が広がる奇莱〜能高〜安東軍の段は年中水の枯れない高山湖沼が幾つか存在します。台湾で最も有名な高山湖沼は七彩湖と嘉明湖だと思うのですが、これら高山湖沼がどのようにして出来上がったかについては幾つかのパターンがあると思います。例えば、嘉明湖は隕石の衝突によって出来たと説明されています。私が「池塘」という言葉を使ったのは湖沼にしては規模が小さく、明らかに湖沼とは成因が異なり、且つ冬場は枯れてしまう場合があるという風に湖沼と区別する為に用いたまでで、学術的に正しいかどうかは判りません。天池山荘の直ぐ横から南華山(能高北峰)の稜線に直登する道が付いていますが、そこを登り切ると広い鞍部(峠)に出ます。南華山と奇莱南峰との間の鞍部で、ここに大小幾つかの池塘があります。私がそこに辿り着いたのは11月で完全に乾き切っていました。大昔はこの辺り湿地帯だった可能性があります。(終)
Posted by 玉山 at 2007年04月17日 12:57
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