2007年04月06日

能高越嶺古道−3

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【写真説明】現在の台湾電力雲海保線所、元々は日本時代の尾上駐在所である。標高は2,360メートル。尾上の名は、この保線所後方にある尾上山(標高2,652メートル)として残っている。古道歩きの一つとして古道入口からこの尾上山頂上までの往復日帰りという方法もある。雲海保線所は西側古道入口から約4.5キロの距離にあり、2時間程度の歩行、最初の大きな休憩地となる。保線所の建物は日本時代の駐在所からはすっかり改築されてしまったが、日本建築を受け継いだ木造である。日本時代の遺物としては建物後方に貯水槽がる。広い庭が保線所の前に広がり、能高山に臨む。正に雲海の名の通り、台湾3,000メートル峰の絶好の展望所である。又、この庭での露営は自由である。

読者の皆さん、特に現在台湾に住んでいる方々に是非この古道を歩いて頂きたい理由として以下の三つが挙げられる:

高低差が少なく非常に歩き安く危険な場所が少ない事、従って、普通の体力があれば誰でも歩ける事が最初の理由だ。

「最も整備され」ているという意味は、この古道は現在台湾電力と林務局の共同管理になっており、日常の管理はバイクの移動で行われている為である。この為、最近はマウンテン・バイクで入って来るハイカーも増えてきた。道路幅は約二メートル、当時の警備道の中でも最も寛いと謂われている。又、高低差が少ないという意味は、西側登山口(標高約2,000メートル)と峠の標高差が800メートル、その間が約15キロあるので、古道はほぼ等高線に沿って走っており、殆ど急坂が無い。

実はこの道幅が寛く、等高線に沿って道が造られているというのは当時の警備道の特徴である。その理由は、原住民が一旦蜂起等の挙に出た際、銃火器、並びに鎮圧隊を迅速に運搬・移動させられるからである。

更に、何故台湾電力かというと、この古道に沿って中央山脈を横断し台湾の東西を結ぶ送電線が走っているからだ。この送電線の建設は日本時代にも計画があり、太平洋戦争で頓挫、戦後国民党がこの計画を引き続く形で完成させ、その際この古道が大いに活用されたと謂われる。これは一大国家事業で「電力の万里の長城」と喧伝されただけあり、確かに台湾の屋根たる中央山脈を越えて送電線が走っている様は圧巻、この古道上の見ものの一つである。この事業を記念する大きな碑が峠に立てられており、一般のハイカーはこの碑が目標となっている。

尚、西側の古道の入り口である屯原(日本時代の「トンバラ」)までは一般の乗用車で入れるアクセスの簡便さも重宝だ。(メルマガ「台湾の声」2005年1月6日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
posted by 玉山 at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 能高越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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