【写真説明】左写真は琉球館に至る狭い路地の様子。中央写真は琉球館前面。右写真は琉球館横の空き地とその後方のマンション群。琉球館の存在は風前の灯か?本文記事中に挿入の写真は、琉球館入口、宮古島島民遭難事件関連の日本側公式文献は「琉球館」の記載だが、「柔運駅」が正式名。下掲左写真は、琉球墓園入口付近の様子、墓園塀上の「琉球墓園」の表記、これら二枚の写真から判る通り、これまで丁重に取り扱われて来たようだ。右写真は墓園中の狛犬で相当古そうだ。
「戦争がおこれば、そのときけじめがつく」
とつぜん良朝は言った。盛棟が驚いて、
「日清戦争か」
「そうだ」
「どうしてそういう」
「どうでも。戦争が起こらんことには片がつくまいと考えたまでだ」
「いやだ。おれはそんなことは考えたくない!」
(中略)
そらから幾月かたった。
「おれは、もう一度福州に行く」
盛棟は言った。
「福州でまだぶらぶらしている連中に、是非説得してやらないと」
むろん良朝は、それをとめた。
「無駄なことだ。戦争になったらどうする」
「だから行くのだ。連中を戦争のなかにまきこまれさせたくない」
(中略)
「光緒九年(明治二十六年)陰暦七月十七日、琉球の士・毛有慶、日射病をえて卒す」と報じられた。在東京の清国公使から尚泰へ、それから留守宅へ―三か月かかって、与那原良朝の耳にはいった。
(中略)
「通知は虚報だと思います。日射病ではない。暗殺されたのでしょう」
「暗殺?誰に?」
「同士討ちです」
(大城立祐『琉球処分』「エピローグ」より)
牡丹社事件(1874年、明治7年)の引き金となった宮古島島民遭難事件(1871年、明治4年)の生存者12名(一行69名の内、3名は溺死、54名は上陸後パイワン族に依り殺害)は、台湾府(台南)から福州府に護送、当地の琉球館で保護された上で、那覇に送り返された。台湾からいきなり沖縄まで送り返されたわけではないという意味である。
上海虹橋駅と福州(南)駅間は新幹線で6時間半程度の距離だから、目的にも依るが一泊すれば往復可能だ。窓からの景色さえ楽しめれば、そのくらいの時間は退屈せずに済むだろうと踏んでいたらその通りだった。
往復13時間掛けて福州を目指した理由は、二つだけ、福州市内で閩南語を聴くこと、琉球館を訪ねること。前者は完全に失敗と云うか、大いなる勘違い、私は福建省全土で閩南語=台湾語が話されていると思い込んでいたのだが、福州市内を案内してくれたタクシーの運転手さんの会話を聞いているとどうも台湾語らしからぬので訊いてみると、それは厦門のことだと教えてくれた。
琉球館と、その在り処をネットで確認していたら同時に行き当った琉球墓園の在り処は、どちらも実際の訪問者の記録を読んでいると、地元の人でも判り辛い場所にありそうだというのが判ったので、「百度」の地図コピーを持参したら、実際役立った。琉球館の方は、福州旧城内に位置することもあり運転手さんも難なく探し出せたが、琉球墓園の方は、旧城の西と南側を形成する閩江を南側に渡った所にある福建師範大学を中心にした学園都市風な一角にあるのだが、運転手さんも大いに迷った。挙句に、この(墓園の前の)通りはよく走っているのに、全然気付かなかった。。。これは本当か、どうか?多分本当だと思う。と云うのは、墓園を後にして、コンビニは近くに無いか?と聞いたら、間髪を入れずに或るコンビニに車を横付けしてくれたので。
琉球館の在り処は、旧城南側を東西に横断する幹線道路である国貨路北側にある琯后路の突き当りと地図では読めた。その路地脇に其の名も南国ビルという記載があり、これならこの大きなビルが良き道標になるなと読んでいた。運転手さんがこの建物でしょうと私に確認を取ったビルは廃墟寸前の態を為しており驚いた。その路地脇の民家、突き当りの民家も取り壊し寸前の状態、そこに琉球館はあった。同館脇は空き地、その後方はマンション群。その空き地に同様にマンションが建てば、琉球館は残れるかどうか?その時の日本外交方針次第かもしれない。
訪ねた折は日曜日で、琉球館も琉球墓園も閉まっていたが、それは苦に為らなかった。現実の在り処に立つということが目的だったので。
東シナ海に流れ込む閩江の東側はもう南北竿塘島から形成される台湾・馬祖列島なのだが、今回の駆け足福州巡りでは、そんな台湾の匂いは全く感じられず、それが少し心残りだった。(終り)
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