能高越嶺古道は現在台湾で最も整備された古道の一つで、以前は「国家歴史歩道」に指定されていたが、今は「国家歩道」として一括りにされている。参考までに、台湾政府(林務局)は「高山歩道」(登山道と同義:中央山脈と雪山山脈を縦断)、「歴史歩道」(古道に同義)、「森林歩道」(一部は登山対象)の三種に「国家歩道」を分けていた。因みに、「越嶺」とは峠越えの事であり、峠とは玉山を盟主とする中央山脈の事で、日本時代は十四本もの越嶺警備道があったと謂われる。能高越嶺警備道はその一つで、能高山(標高3,262メートル、台湾百岳58号)と南華山(標高3,184メートル、台湾百岳75号)との間の鞍部(峠の意:標高約2,800メートル)を貫き、当時、東側は花蓮市と西側は南投県霧社を繋いでいた警備道で、全長80キロ、この間二十箇所に駐在所が置かれていたそうだ。日本の第二高峰は南アルプスの北岳で標高が3,200メートル弱だから、これら四つの数字を並べただけでも当時の原住民警備道、並びに駐在所が置かれていた環境が想像出来るかと思う。現在国家歩道として残されているのは峠の東側10キロ、西側約15キロ、全長約25キロ、能高山等の登山を目的としなければ二日で歩き通せる。但し、私自身は東側には下りたことが無いので、以下は高雄市、台北市等台湾の西側に住んでいる方に簡便な西側からの紹介が中心となる。(メルマガ「台湾の声」2005年1月6日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
【関連する記事】
- 能高越嶺古道−35:松原駐在所−2:「深堀山西南」水準点
- 能高越嶺古道−34:松原駐在所−1
- 能高越嶺古道−33:能高駐在所−2:「能高」水準点
- 能高越嶺古道−32:能高駐在所−1
- 能高越嶺古道−31:古道東西分岐点−2
- 能高越嶺古道−30:古道東西分岐点
- 能高越嶺古道−29:合作村静観(2)
- 能高越嶺古道−28:合作村静観(1)
- 能高越嶺古道−27:合作村平生
- 能高越嶺古道−26:精英村平和
- 能高越嶺古道−25:精英村平静(2)
- 能高越嶺古道−24:精英村平静(1)
- 能高越嶺古道−23
- 能高越嶺古道−22
- 能高越嶺古道−21
- 能高越嶺古道−20
- 能高越嶺古道−19:尾上駐在所
- 能高越嶺古道−18:雲海保線所
- 能高越嶺古道−17:富士見駐在所
- 能高越嶺古道−16:能高越嶺古道登山口


この風景は灯りがこんなになかったとしても4時頃には何時の時代にも見られたわけですよね。霧社事件については何冊かの本を読みました。あの事件の最中にこの風景を見た人もいるのかもしれませんね。山の斜面の丈夫な木には追いつめられ縊死した人達が下がっていたとか。どんなに深い無念を抱えて逝ったか・・・・・。彼等の多くが夜に行動することが多かったように記憶していますが、こんな風景を見ていたら良いなと思います。夜は厳しさの反面、優しさも持っていると思いますから。
以前、インディアン史等に関する本を紹介してくださいましたね。2冊とも読みました。しかし、能力不足で消化不良。となると、別のものが欲しくなります。今はとても便利です。在宅で図書館の本の検索ができて、しかも、本の内容の説明があるものもあるのです。そこで、これかなと思うものを借りてきて読み始めました。私の『何故』に応えてくれそうですし、私の中にある感覚、思いを言葉で表現してくれそうなので、期待しています。《周辺民族の現在》清水昭俊編 世界思想社(1998)
時期は11月末です。実はこの写真を撮ったのは夜中の8〜9時頃だったと思い込んでいたのですが、ファイルの記録が午前4時過ぎになっているので、その時どのようにして古道に入り込んだのか?記憶を手繰ってみるのですが、よく思い出せません。多分、夜の内に高雄から霧社辺りまで来てテントを張って一泊し、午前三時頃に古道入口を出発したのではないかと思います。月のお陰で電灯が要らないくらい明るかったのを覚えています。二日目の朝9時頃までに何処まで辿り着きたいか?というのが夜中、早朝何時頃に出発するか?で大概決めています。(終)