2013年06月22日
蘭嶼−6
【写真説明】現代台湾中国語で「半穴屋」と呼ばれるヤミ族の伝統家屋が多数残る野銀(イワギヌ)部落。実際この部落こそがヤミ族の伝統文化の担い手かと思えてしまう程だ。他部落は、コンクリートの「蘭嶼国民住宅」に席巻されてしまった。中央写真はその伝統家屋の一例。暫く仔細に眺めていると各戸の庭に相当する部分に、三個の石が右写真のように立てられているのに気付く。如何にも伝統的で宗教的な匂いが漂ってくる。現代台湾中国語では「靠背石」と呼ばれる。屋外の座椅子、或いは石のハンモックと云ったところか。宗教的な意味合いがあるのであれば、夕方、これらの石に背を持たせて休息している人々は全くそぐわない。
<先達>
蘭嶼郷公所(役場)公式サイトに曰く、1895年(明治28年)、下関条約後台湾領有を開始した台湾総督府は、蘭嶼を台東庁下に置き、人類学研究区域に指定、外来者の開発を禁じた為に日本時代を通じタオ族の伝統文化は保護されることになった。日本では文化人類学等の学問はその端緒に就いたばかりの時期であることを勘案すると、当時のこの日本政府の政策は優れて革新的だ。1933年(昭和8年)に出版された『東台灣展望』(註5)の中で著者毛利之俊が「商店も旅館も無い」と不便さを託つ(?){かこつ}記述がある。その間、台湾研究草創期の泰斗が次々とフィールドワークに赴く。これまで私が「台湾の声」でも紹介したことのある研究者を列挙すると、以下の通りである。年号は蘭嶼への初渡航・踏査である:
鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)、1897年、明治30年
伊能嘉矩(いのう・かのり)、1897年、明治30年、但し数時間のみ寄港、鳥居と面会
森丑之助(もり・うしのすけ)、1901年、明治34年
浅井恵倫(あさい・えりん)、1923年、大正12年
鹿野忠雄(かのう・ただお)、1927年、昭和2年
これらの錚々たる先達が嘗てこの島を訪れたことがあるというのも私が何時かは蘭嶼に渡ってみたいと想い続けた動機の一つである。>(メルマガ「台湾の声」2012年05月01日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
(註5)毛利之俊原著の復刻中文版。原民文化事業有限公司から2003年4月初版。
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