【写真説明】能高越嶺古道西側入口、トンバラ(現代表記:屯原)の地に立つ国家歩道の道標。「ok」ではなく、「0キロ」の意である。道標上にある四角形のマークの拡大が右イラスト。色違いの四つのモチーフで構成され、それを一本の道が貫く。濃い緑が中央山脈、薄緑が西側(台湾海峡側)の低山、青が東側、太平洋に臨む険しい海岸線、原住民が茶色で表現されている。国家歩道に指定された道路にはこのシンボル・マークの付けられた左写真と同様の道標が、500メートルから1キロごとに敷設されている。
台湾の「古道」を読者の方々に紹介したい理由は二つ有る。一つは台湾の特に日本時代の歴史をより深く識る為の便(よすが)と成り得る事、もう一つは台湾の自然の壮麗さを直接享受出来る機会に恵まれる事である。更に、前者に関しては現在の原住民の生活状況、延いては原住民の置かれている社会的な状況をも垣間見る機会となり得るし、後者に関しては現在の台湾の自然保護活動、観光行政に思い至る機会とも成り得るとも考えているからである。
現在「古道」歩きは台湾では(或いは、で「も」)ブームだ。これは台湾の急速な民主化に伴い台湾の真の歴史を知ろうという機運が大きく与っているであろうし、無論、健康ブームも与っているはずだ。古道をテーマにした出版物も増えて来ている。ブームという限りに於いてはそれに便乗しようとする人は当然出てくるわけで、或る観光地ではどう考えても似非(えせ)古道ではないかと思われるものまで出現している有様だ。
一般的に台湾で古道と呼ばれているものは大きく三つに分けられと云われている。まず、台湾先住民たる原住民部族間の交易・婚姻道、次が主に清朝時代に建設された「開山撫蕃道」に代表される道路、更に日本時代の所謂「理蕃道路」である。現在古道と呼ばれているものをこれら三つに厳密に分けるのは難しいと云われるのは、日本時代に前者二形態の道路網を、原住民の抵抗、蜂起を押さえる可く理蕃道路として整備、拡張していった経緯があるからだ。従って、理蕃道路が現在の台湾の古道の最終形態ということになる。
戦後はこれらの道路はそのまま自動車道として整備されていったものが多く、他方、経済的に不要とされたものは廃棄されるか、或いは林道、産業道路、登山道として生き残り現在尚利用されている。但し、林道、産業道路に関しては外材の進出に伴う台湾林業の衰退により多くが急速な勢いで廃棄の憂き目に遭っているのが現状である。
以上の背景に因り、台湾古道の歴史は浅いものについては精々六、七十年ということになる。尚、私はこれまでブログ中、理「蕃」という文字を使ってきたが、これは当時の原住民に対する蔑称である「蕃人」の字をそのまま使ったのものだ。しかし、現在の台湾の出版物は「番」の字になっているし、清代の開山撫蕃下では実は「番」の方が多用されている。「理蕃」という呼称はあくまで当時の支配者であった日本人側のものなので、実際は「警備道」と呼ぶのが適当かと思う。(メルマガ「台湾の声」2005年1月6日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
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2007.4.2の西日本新聞にて西様の、台湾の「古道」が紹介されました。貴重なページに感動しています。一度だけ台湾観光の経験がありますので、これを契機にして「山」を中心にした台湾の山岳信仰などにも関心が出てまいりました。
ゆっくりと西様のホームページを堪能させてさせていただきます。有難うございました。
わざわざコメントいただき誠に有難うございました。私のブログの記事、古道以外のことでも何なりとコメント、質問等をお寄せ下さい。但し、台湾の山岳信仰に関しどの程度答えられるかは疑問です。今後とも宜しくお願い致します。(終)