【写真説明】新北市貢寮区澳底は今でも小さな漁港である。そこから海岸線を僅かに南下すると「塩寮抗日遺址」という外側は中華風の装いの記念公園がある。日清戦争後、北白川宮能久親王率いる近衛第一旅団の上陸地点である。同公園はここら辺りの経緯をすべてガラスに刻み込んで展示するユニークな歴史博物公園である。右写真奥に写るのは、現在見る抗日記念碑、建立当時は「北白川宮征討記念碑」であり、そのオリジナルの記念碑デザインが同写真に見るガラスの透かし彫りだ。下掲左写真は塩寮抗日遺址内の北白川宮能久親王レリーフ、右写真は鹿児島市南洲墓地内の篠原國幹墓碑、西郷隆盛墓碑の左翼であり、右翼は桐野利秋墓碑、2012年7月撮影。
さて、恒春卑南古道を大陸から台湾へ戻したが、澳底は本ブログ読者にも余り馴染みがないかもしれない。西郷隆盛、菊次郎父子は本ブログでも取材してきたが、長子、寅太郎は未だだったのを思い出した。実際は、メルマガ『台湾の声』に対し「西郷家と台湾古道」のタイトルで寄稿した。今回は、西郷寅太郎の部分をそのまま抜粋し、恒春卑南古道=西郷従道の流れの中で、澳底の紹介に換えたい。
新北市貢寮区澳底は、今は核の街、台湾電力「龍門原子力発電所」(龍門核能発電廠)、通称「核四」があるが、同時に今でも小さな漁村である。同発電所は、元々台湾内で物議を醸していたが、東日本大震災以降一層迷走継続中。
[「西郷家と台湾古道」抜粋始め]
隆盛の長子、寅太郎は父隆盛が西南の役に出陣した時は僅か七歳だった。
その後は近衛師団歩兵中尉として日清戦争に出兵、戦争終結後、そのまま清国より北白川宮能久(よしひさ)親王率いる近衛第一旅団の一員として台湾北東部海岸、現在の新北市貢寮区澳底に上陸し、日本への割譲に反対する武装蜂起勢力の掃討戦に参加した。
この上陸地点には当時「北白川宮征討記念碑」が建立され、現在同碑は「抗日記念碑」に替えられてはいるが、その場所は塩寮海浜公園の一部として整備され、透明ガラスを展示板に利用したユニークな日清戦争歴史記念館になっている。
その後、寅太郎は基隆を経て台北に入城、桃園、台中、彰化、台南まで南進する。台湾民間人も義勇軍として各地で武装蜂起に参加、日本軍に対するゲリラ戦を展開した。そうした義勇兵のアジトとも言える洞穴が、台北市の最南端、新店区郊外にある新店獅仔頭山歩道(「台湾の声」紹介済み)に残る。
寅太郎の最後の経歴は、第一次世界大戦中に中国青島で捕虜にしたドイツ兵を収容した習志野俘虜(ふりょ)収容所所長で、在任中に当時流行したスペイン風邪で命を落とした。
習志野の地は、父隆盛の縁(ゆかり)の地でもある。明治6年(1873年)、西郷隆盛(当時陸軍元帥兼参議)の指揮下、同地で挙行された近衛兵の大演習を観閲した明治天皇によって習志野原と命名されたのだが、演習中の篠原国幹(当時陸軍少将、薩摩藩、西南の役時田原坂攻防戦で戦死)の指揮振りに感銘した明治天皇の「篠原に習え」という言葉が元になったというエピソードも良く知られている。
[抜粋終り]
(終り)
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http://www.city.narashino.chiba.jp/konnamachi/bunkahistory/rekishi/640120120510101326490.html
をご覧ください。
ネット上では菊次郎に関する事磧はよく紹介されていますが、寅太郎のものは左程多くはありません。その意味で、お役所のサイトでこれほど纏めて紹介してあるのには驚きました。新めて感謝致します。
今後とも弊ブログを何卒宜しくお願い致します。(了)