2013年05月04日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−31

Kodou-1095.jpg Kodou-1096.jpg Kodou-1097.jpg
【写真説明】上掲左写真は、中国安徽省省都合肥(がっぴ・ごうひ)駅全景。中央写真は合肥旧城内で最も賑やかな「淮河路歩行街」(淮河路歩行者天国)の入口付近。淮河(わいが)=淮水は黄河と揚子江の中間を流れる河で華北、華南の境界を為す。曽国藩、李鴻章の湘軍、淮軍の「淮」である。但し、淮河自体は合肥市の北側150キロ程度の場所を流れる。右写真は、その歩行者天国沿いに立つ李鴻章故宅(正式には下掲左写真に写るように「李鴻章家族住宅」)、或いは「李府」(下掲中央写真)と呼ばれる住居群正門左側の路地。下右写真は今は博物館として一般に開放されている故宅の中の展示物例。

久々に恒春卑南古道に戻って来たが、今回戻って来たのは台湾ではなく中国大陸である。

今年四月のと或る日、現在の職場(中国蘇州市)が三連休になったのだが、事前の按配が悪く初日を無為に過ごした。慌てて中国高速鉄道(中国版新幹線)の予約状況を調べてみた。流石に直前では二日を利用して出掛けられる場所はなかなか都合の良い時間帯の席は空いていない。そんな中、一駅だけあった。江蘇省の西隣安徽省省都合肥である。新幹線で南京より西側には脚を伸ばしたことはなかったので、片道三時間程度で往復出来るのであれば便利とばかりに、先に席を確保した上で、ネットで合肥市の観光案内をざっと見た。新幹線路線距離で始発上海駅を0(キロ)とすると、蘇州=85、南京=300、合肥=450であるから、台湾の南北端を結ぶ距離に等しい。従って、蘇州−合肥の大体中間が南京ということになる。

合肥旧城内に、日清戦争後の講和条約である下関条約時の欽差大臣(清国全権大使)、李鴻章旧宅が存在することが判った。合肥そのものが李鴻章の出身地であり、旧城内とは別な場所に墳墓があり、旧宅とこの墳墓を組み合わせたツアーがあることを現地に入ってから知った。この二日間の目的地を唯一李鴻章旧宅に定め、その場所に近いであろうホテルに見当を付けて予約した。五十をとうに過ぎたおじさんのぶらり一人旅である。

宮古島島民漂流→牡丹社事件(征台の役)→日清戦争→下関条約・台湾割譲と続く一連の出来事が台湾近代史の幕開けであることは、これまで本ブログでも何回か述べた。つまり李鴻章に纏わる地を探訪するのは私にとり台湾古道探訪の一部だと考えたわけだ。李鴻章が現代中国でどのように評価され取り扱われているかは少々興味があっても、李鴻章そのものに興味があるわけではない。台湾古道歩きを大陸にも延長してみようという試み、というよりは大いなるこじ付けに過ぎない。日本の歴史教科書的には、李鴻章に関しては、洋務運動、西太后ぐらいを覚えておけば良いだろう。故宅を訪ね初めて知ったのは彼が書の大家であることだった。李鴻章の地方官としての振り出しは江蘇巡撫(「巡撫」は今の省長ぐらいに相当か?)だったので、蘇州にも縁があることになる。又、進士(科挙合格者)の同期に沈葆(弊ブログ記事「八通関古道」参照)がいた。

合肥旧城は東西4キロ、南北3キロ程度の小さな区域で四囲を運河で仕切られており、この運河沿いは環城公園としてよく整備されているので散歩には非常に宜しい。旧城を東西に貫く幹線道路が長江路で、李鴻章旧宅は、旧城東側のこの幹線道路の僅か北側にあることになっている。私はこの旧宅の近くのホテルを予約した積りだったが、実際は逆の旧城西側端近くのホテルだった。ホテルには午後二時前後に入り、当日中に徒歩で辿り着けるものと踏んで歩き出した。長江路沿いに「李鴻章故居」の「1キロ」と表記された茶色の道路標識を見たがそれっきりで、何処を左折すればいいのか?見当が付かず、とうとう旧城東端近くまで来てしまった。そこからそれこそ50メートル置きぐらいに通行人に場所を訊きまくり、漸く辿り着いた場所が本記事に掲載した写真である。既に4時半を過ぎ薄暮だった。(終り)


Kodou-1100.jpg Kodou-1098.jpg Kodou-1099.jpg
posted by 玉山 at 08:22| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 恒春卑南古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック