2013年04月26日
苗栗獅山古道−7
【写真説明】左写真は獅山古道が旧登山口に向かい最後の勾配を開始する辺りにある岸壁で、刻字にある通り、「獅頭岩」。但し、「岩」は簡体字(繁体字は「巖」)だし、「中華」の文字も見えるので、随分最近の刻字だと思う。獅子の頭部全体たる獅頭山頂上は遥か後方に大きく聳える。中央写真は、その獅頭岩を過ぎて、最後の旧階段脇に並ぶ常夜燈。右写真は苗栗県道124号線沿いに立つ獅頭山旧登山口の古山門。
獅山古道の最終回記事である。丁寧に歩けばもっと色々な掘り出し物が飛び出して来るのであろうが、獅頭山山中に複数整備されている内の一本を、文字通り駆け足で抜けた二時間程度の踏破行を記事にしただけなので、読者には随分端折った印象を与えたのではないかと思う。
私の記事の特徴、つまり煩わしさの一つは、東西南北、左右上下を多用することだろう。筆者本人は記憶を辿りつつ、その襤褸脳味噌という乾いたタオルを絞るような努力で記事を綴っているのだが、本人のそんな奮闘に比して、浮かび上がってくる具体的な視覚的イメージは貧しいのは認識している。遅くなったが、最後の記事を投稿する時になり、やっとグーグル・アースに依る獅頭山のダイヤグラムを間に合わせた。
獅山古道の最南端は急階段、常夜燈、古山門で終わる。
これらの常夜燈、元々同じ場所に置かれていたのか?或いは、最近になり外部から持ち込まれたのか?というような疑問を持ったのは、この燈籠が仏式なのか?神式なのか?判断が付かなかったからだ。ここは基本的には仏教+道教の聖山と呼んでいいのだと思うが、どうも神社も存在していたのではないか?と思わせるよう残骸が散見されるからだ。例えば「苗栗獅山古道−3」で掲載した日本時代建立のバロック式牌楼を擁する霊霞洞の写真、牌楼の両側に石の塊が転がすように置かれているが、狛犬の残骸に見えるのだ。ウィキペディア『燈籠』の項には、「灯籠は仏教の伝来とともに渡来し、寺院建設が盛んになった奈良時代から多く作られるようになり、多くは僧侶が用いたとされる。平安時代に至ると、神社の献灯としても用いられるようになる。」とある。
そして、古山門、傍を車で通過すると、あっ!と叫んで思わず振り返ってしまうような視覚的インパクトの強烈な実に優雅で古色蒼然とした構造と意匠、そして佇まいである。
山門の左右脇に一基ずつ石柱が立つ。各々以下のように刻字されている。裏側は消去しようとした痕(あと)があるが、今でも明瞭である:
(右)(表)曹洞宗獅頭山、(裏)紀元二千六百年記念
(左)(表)勸化堂開善寺、(裏)住職田中應海
再度、同地を訪れる機会があれば、この山門を潜って獅頭山頂上を目指したいものだ。(終り)
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