2007年03月08日

浸水営古道−15

Kodou-55.JPG kodou-57.jpg Kodou-56.JPG
【写真説明】旧力里部落(リキリキ社)の正確な位置を割り出すのに、当時撮影された写真を参考にする方法があることに思い当り、東京大学総合研究博物館の古写真アーカイブ(左「お気に入りリンク」を参照:同博物館のHPからアーカイブに入る方法はこのブログの一番下を参照)を探してみたら出てきた。このアーカイブの台湾の部は鳥居龍蔵コレクションである。リキリキ社と説明のある写真は三枚(写真番号7077、7054、7465)しかないが、同7075「帰化門社の人々」に始まる連続した写真は少なくとも同7083まではリキリキ社とその周辺で撮影されたと想像出来る。当時、原住民族村落で撮られた写真はもしバックに山の稜線が写っていれば撮影場所を特定出来るケースが非常に多いことをこれまでの経験で知った。殆どの場合、開発の手が入り山容が変わったということがないからだ。

そこで、私自身が撮影したもので鳥居が撮影した中央写真(写真番号7076)に近いものはないか探したら出てきた。それが左写真である。この日、天気が良くパイワン族の聖山、北大武山(標高3,092メートル:左写真、中央写真とも一番奥の山)が良く見えていたので偶々シャッターを切っていたに過ぎない。左写真の中央部を走る稜線左側、下に崖を従えたピークと、中央写真の真ん中を競り上がった先の稜線の右端に写るピークは同地点である。鳥居の「リキリキ社」の説明のある写真(写真番号7077)では、中央写真よりもう少し下り右に寄った地点で撮影しているが、その写真では力里渓谷対岸のこの崖がくっきりと写り込んでいる。

それと私の撮った左写真の同じ崖を比べてみると崖層が全く同じであることに驚く。鳥居の台湾踏査は1896年(明治29年)から1900年(明治33年)の間に四回、この辺りは最後に入ったのではないかと思われるので、既に百年以上が経っている。台湾南部は然程大きな地震を経てこなかったという証左であろうか。プログに掲載した写真サイズでは判りにくいが、中央写真の下にリキリキ社が見える。

右写真は、リキリキ社のあったと思われる上部から力里山(1,170メートル)とその山裾に耕された畑を撮影したもの。力里山は高雄からでも簡便に日帰り登山が出来るので非常に人気のある低山である。このように大漢林道が標高1,000メートルを超えた後も、林道、即ち古道に沿ってパイワン族の現役の農場が三箇所程広がる。同写真左端辺りが、鳥居が中央写真を撮影した場所だと想像される。これで次回、鳥居の撮影した写真のコピーを数枚持参していけば、確実にリキリキ社に辿り着けるということで、浸水営古道のブログに拠って山の中をこれ以上歩き廻ることは止しにする。

(参考)鳥居龍蔵コレクションに入るには以下の順番でメニューを選択:
「東京大学総合研究博物館」→「ウェッブ・ミュージアム」→「博物館データベース」→「人類先史」→「東アジア・ミクロネシア古写真資料画像」→「台湾」で検索

余談である。今回は実は前回少しだけ触れた士文村(日本時代のスボン社、又は率芒社)について紹介しようと考えていた。というのは、これまで何回もこのブログに於いて春日郷という地名を出したが、この日本時代から引き継がれた地名「かすが」についての由来を全く説明しておらず、その為には、スボン社に触れるのが最もいいと考えたからだ。一つには、現在の春日郷に相当する地域では、日本時代、同地に点在して居住するパイワン族をスボン蕃と総称していたからだ。但し、余りにくどくなるので、詳しい紹介は次の機会に廻すことにし、ここでは以下の簡単な紹介をしておく。

前回のブログで、現在の春日郷6村はすべて低地に集中して居住していると書いたが、実は例外があり、それが士文村である。士文村の標高は約400から500メートルぐらいなので一般の居住区としてはかなり高い。省道1号線からだと約10キロの距離である。平地の10キロは大したことはないが、これが山地の入ってしまうと、かなり山深い感に囚われるし、山地原住民の居住区への道路というのは自動車であっても大概は狭く危険な場所が多いが、この士文村への自動車道は広くよく整備されている。しかも山中に忽然と姿を現す小村落の中の派出所の建物が村の規模とは不釣合いに馬鹿に大きいのである。これは何故か?というのがこの村へ入った時の最初の疑問であった。

現在の春日郷の郷公所(役場に相当)は低地にありそこが同時に春日村の中心でもある。「春日」は、カスカ、或いはカスボンアンに由来するようであるが、色々なサイトを通じて春日郷の沿革を見ていたら、その中に春日社=率芒社であるという説明があった。これは非常に判り安い。日本時代の現在の春日郷地域、即ちスボン蕃地に於ける原住民族管理の中心地は現在の士文村(現在の地形図上も括弧付きで「率芒」と明記)であったということである。これが上記の私自身の疑問に答えることになる。同地域で公学校を擁していたのもスボン社だけだった(教育所はキナリマン、リキリキ、コワバルに設けられていた)。士文村にも神社跡が残るというのを知ったのはこの村を訪問した後だった。(終わり)
posted by 玉山 at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 浸水営古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック