2007年03月03日
浸水営古道−14
【写真説明】左写真は現在の屏東県春日郷古華村入口。日本時代のコワバル社が源(みなもと)。但し、春日郷の他のパイワン族村落と同様、平地に移遷してきた後の集落である。枋寮を過ぎ省道1号線を少しだけ南に下るとこの1号線と交差する屏東県郷道146号線があり、そこを東側に入ると古華村入口である。左写真右側の道路がそれで、そのままマンゴーの畑を両側に見ながら平坦地を山間(やまあい)に向かって数キロ進むと「旧古華村」に着く。それが中央写真で、この案内板のある場所から146号線は士文村(日本時代のスボン社、又は率芒社)に向かって山を登り始める。つまり、旧古華村の一部は既に平地であり、コワバル社の当地、現代台湾風の地名の付け方では「老古華村」と呼べるものは山中深くにあるのであろうが、この案内板横に立つ地図上にある「古道」を丁寧に辿るしかなさそうだ。右写真は旧古華村内に残る教会遺構。
大漢山林道の14キロ地点に、「力里社遺址頭目家」という遺蹟を示す道標があり、旧リキリキ社への方向を示しているが、前に書いたように農業用道路が入り組んでいて辿り着けなかった。この道標にはもう一つ「旧古華社」の道標も付いており、お互い全く反対方向を示している。どちらに進んでも大きく谷に下りこんでいく。前者が力里渓、後者が士文渓(率芒渓)に落ちる。リキリキ社探索で懲りたので、「旧古華社」側もどこまで下ればいいやら、しかも最近人が入った様子もなく、加えてその後登り返してこなければならない難儀を考えたらとても足を踏み入れる気にならずにいた。
最近になり古華村に関する記事を検索していたら、この村に旧日本軍の地下坑道が残っており、その場所が標高100メートル程度の所にあるという紹介を見付けた。地図を見てみると古華と旧古華は平地続き、しかも省道1号線から少しだけ入り込むだけである。大漢山林道14キロ地点の道標は標高約1,000メートルに立つので、「旧古華」への道標をわざわざ立てるのは如何にもおかしい。とにかくその地下坑道だけでも見てみようと思い、出掛けて出会ったのが上掲の写真である。
中央写真「旧古華部落堡塁」の案内板「古華:部落変遷史」に次のような説明(筆者拙訳)がある:「1931年(昭和6年)、kuabar(筆者注:コワバル社)とtjaivavau(同:チイババオ社)の両部落が北湖呂山(同:標高1,357メートル)より移遷してきてこの地に一つの部落を形成したのが古華村である。又、1946年、力里村(同:リキリキ社)より9戸、1952年には士文村(同:スボン社)より5戸が古華村に移遷してきた。当時、村の全戸数は約120戸、しかしながら良い時期は長続きせず、1972年7月22日に襲った莉泰台風(同:Rita台風、台風7号)により、村は土石流に押し流され、現在の新古華に移ることを余儀なくされた。即ち、我々の祖先・先達が41年の長きに渡りこの地にあって村を築き上げてきたのだ。この精神堡塁を設置することにより、我々後代の子孫は祖先・先達の奮闘精神を記念、称えると共にこの部落、即ちkuabar=古華に帰属することを認識するものである。」
現在の春日郷はパイワン族の村6村(力里、帰崇、七佳、春日、古華、士文)が力里渓沿い(前者三村)と士文渓沿い(後者三村)の下流低地に集中しているが、この1972年の台風7号は、この内4村を押し流した。
この案内板の説明に依れば、昭和の初期まで居住していたコワバル社の地が「老古華」ということになるかもしれないが、年月を考えればとても入り込めそうにない。やはり、大漢山林道上の「旧古華社」の道標は、そのまま現在の地図上の「旧古華」の地と考えざるを得ないようだ。因みに、旧日本軍の地下坑道は見付けられなかった。(終わり)
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック