2007年02月09日
浸水営古道−11
【写真説明】左写真は屏東県枋寮郷玉泉村に残る「聖蹟亭」。玉泉村は嘗ては石頭営と呼ばれていたように、越嶺道西側最初の営設営地点である。聖蹟亭は「惜字亭」とも云われ儒教下の文字供養塔とも呼べるもので、書籍等文字の書かれたものを燃やす炉である。清朝の開山撫蕃時に台湾の各所に作られその多くが今では国家史蹟に指定されているように、優美な原形を保つ。この玉泉村に残るのもその一つ、国家三級古蹟で、嘗て清軍により石頭営が設営された付近にある。周囲を公園にして保存されている。清軍は原住民教化の為にこの地に「蕃学堂」を設置した。開山撫蕃下に於ける越嶺道起点付近の蕃学堂設置、聖蹟亭建立の例は台湾の他地域にもある。政策上は、後の総督府に依る蕃童教育所に連なる原形と言えるかもしれない。
中央写真は、この公園の北側に広がる農地、写真右奥の農家付近に嘗て営が設営されたらしいが、今では跡形も無い。石頭営の名が示す通り同写真に写る畑の中にもこぶし大以上の石がごろごろしている。同写真右手前は灌漑用水路、もともとは日本時代に開鑿されたはずだ。近くを流れるリキリキ(力里)渓から水が引かれた。同地は当時「大響営農場」と呼ばれていた場所で精糖に供される砂糖黍(さとうきび)が盛んに栽培されていた。
現在沿山公路と通称される屏東県道185線沿線、その西側を走る省道1号線に囲まれた地域は日本時代に砂糖黍以外にパイナップル、牧場用として広大な農場が開拓され、灌漑水路網が整備された。パイナップル畑は今でも見ることが出来る。
右写真は玉泉村より県道185線を20キロ程北上し来義郷来義の入口、日本時代、台湾製糖株式会社により開かれた萬隆農場付近の灌漑用水路、地元では単に「農場」と呼ばれる一帯にある然る小さな水門。水門そのものは戦後のものだと思われる。ここら一帯の近くの林邊渓から水を引き込んでくる灌漑水路網は「二峰[土/川]」と云われているのを地元ニュースで知った。
嘉義県南端にある曾文水庫(八田与一所縁の烏山頭水庫の東約20キロ)から高雄県まで水を引く計画に対し、同県の高屏渓から水を引けばいいではないか?その為には、日本時代の二峰[土/川]水路網技術を研究し見習え、と云うのがニュースの主旨(2006年7月21日付け「反越域引水 高雄県擬用日治時代集水廊道」)。但し、その記事からは高雄県のどこに具合的に水を引いてくる計画があるのかは不明。右写真はこのニュースから約二週間後に地元に行って撮影したもの。近くの水路には国立屏東科技大学の三氏の連名で「流量実験中に付き勝手に断水させないで下さい」という意味の立札が置かれていた。その中の一人に電話すると、日本時代の二峰[土/川]水路網の詳細図は提供できるとのことであった。嘗ては立派に整備されていた農地であったのだろうが、今は草茫々、県道沿いの水路以外はどこをどう水路が走っているのか全く見当が付かない。(終わり)
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