2007年02月03日
浸水営古道−10
【写真説明】左写真は、屏東県枋寮郷水底寮の街中にある、浸水営越嶺古道の西側起点、地元の人々に「三叢榕」と呼ばれる土地廟がある。「榕」はガジュマルの樹、写真で見る通り、文字通り三株のカジュマルという意味だと思われる。同写真の橋の袂に屋台が写っておりその下の部分が右写真である。その右写真右側の石に「嶺路頭」と刻まれており古道の起点であること示している。「越嶺道起点」ぐらいの意味だろう。同時に「行路平安符咒」(「咒」はおまじないの意味)の文字も刻まれているらしいが、その左側の石上の文字は明らかに別の文字、土地廟の御神体と思われ、確認出来なかった。このように土地廟と一緒になっているのは、道の交差路(現在は三叉路)にあることから石敢當(いしがんどう)的な魔除けの機能を果たしてきたのだろう。
浸水営古道のブログも10回目の連載になるが、後、営盤の如く一般の人々には判然としない遺蹟ではなく形がはっきりとした本古道関連の遺蹟を二点、最後に古道の名前の謂れとなった「浸水営」を紹介して浸水営古道に関するブログを一旦完結させることにする。
これまで古道西側を起点にして順に古道上の主な景点を紹介してきたが、改めて、現在台湾で一般に流布されている順に全長約50キロを並べてみると次の通りである。即ち;
屏東県枋寮郷水底寮→同玉泉村(石頭営)→同新開村([土>嵌]頭営・駐在所)→歸化門(社・営・駐在所)→旧力里(社・駐在所)→六儀社営→大樹前営(駐在所)→浸水営(駐在所)→コリバボノ(社・駐在所)→出水坡(社・営・駐在所・神社)→(新)姑仔崙(駐在所)→姑仔崙(社・営・駐在所)→チアチアカトン渓→大武溪→台東県達仁郷加羅板部落→台東県大武郷大武。
どの古道に於いてもその道中さえ既に怪しくなっているわけで、何等かの具体的な印が残っていない限りは、ではその起点が具体的に何処だったかを現代に於いて特定するのは至難の業である。但し、浸水営古道の西側の場合、起点を表す碑が残存している。現地に行ってみると、単に碑というより今では土地廟の一部になっていた。この場所にはこの遺蹟に関する一切の案内板が無い。地元に赴き「古道起点の石碑は何処にありますか?」などと聞いても無論誰も判らない。「三叢榕は何処ですか?」と台湾語で聞けば誰でも答えてくれる。「嶺路頭」は明治34年(1901年)に置かれたそうで、それまで清朝により「三條侖道」と呼ばれていた越嶺道が、日本統治下の浸水営越嶺警備道に遷っていく年である。(終わり)
この記事へのトラックバック
。それぞれの状況は様々で、それぞれはどんな意味を持つのでしょう?また、どんな価値を持つのでしょう?台湾原住民の友達を前にして、自身の来し方、未来を考えて、またこの古道のブログを読んでそんなことを考えてしまいます。
すみません。面倒なことを言って。このブログを読んでいると、色々と想像することが多くて、とても興味を引かれます。これからどんな展開になるか楽しみにしています。
これら三つの問いに関し、二番目の何故文字にするのか?はコミュニケーションの手段として最も簡便であるからであり、最後の何故ブログとして公開しているのか?は、多くの人に知って貰いたいから(その先、私のブログを通して得たものをどう利用、展開するかは読者の選択になります)というふうに容易に回答できます。が、最初の何故台湾の古道を歩くのか?というのは少々面倒な質問です。
一つはっきりしているのは、もしこれが例えば他の国に拠って開鑿、或いは整備されたものであれば今程には興味を持てなかっただろうということです。台湾古道の最終形態の多くが理蕃道です。結局、興味が持てるかどうかはアイデンティティーと深く拘わってきます。アイデンティティーを確認する一つの手段として後ろを振り返る(例えば、歴史を学ぶ)ということは多いに有り得ることです。その際、手近な部分に五感で確認できるものがあれば大いに助かります。実際は皆毎日前を、未来に向き合いながら生きていますが、前にある確実なものは死だけで、死ねば前も後ろもありませんが、今確実にあるものは過去と現在のみですね。その意味では、まず自分達の子孫の為に形あるものを残していくことは大事だと思います。歴史的な遺物はそれが抑圧・被抑圧のどちらの形を取ったものであるにしろ保存して後世に託すという意味です。大いに飛躍した纏りのないコメントになり申し訳ありません。(終)
私自身は単語が色々浮かんできたり、言葉にできないもわ〜っとした感覚があったりで、なかなか文字にできないでいます。今回、このことを考える上で私の中にはなかった『アイデンティティー』という言葉が気になりましたので、それで考えてみたいと思います。
歴史的な遺物に限らず、形のあるものに付いてだけ言っても、人のアイデンティティーの形成の一部に関係していると思います。そのことから言って、形あるものを残すことが大事なことだということは分かります。
そこで、私には台湾原住民である友人がいます。それぞれの民族で括った背景を考えた時、日本人の私には先人の残した形あるものがたくさんあり、台湾原住民の友人にはあまりありません。そんな遺物のある中で、またはない中でそれぞれの先祖が世代を繰り返してきて、日本人である私と台湾原住民である友人が出会ったわけです。遺物がアイデンティティー形成にに関ってくるとしたら何か差があっても良いのではないかと思います。今のところ何もありません。また、遺物があってもなくても同じように存在しています。(このことから、先人の遺物があるということはどういうことなのだろうと時々考えていたのです)そして、日本の遺物に対して、私は「日本人はすごい」、「日本人は酷い」とは考えなくて、「人は〜」と考えます。だから、各国、地域にある形あるものはある民族のものではなく、広く人類のもので、あるように思えます。勿論、美意識等に関しては民族独自のものだと思いますが。
と、大雑把にこんな風に考えてみましたが、まだ全然すっきりしていません。