2013年03月01日

新店獅仔頭山古道−5

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【写真説明】左写真は、防蕃碑への道順を示す、普通紙をプラスチックでラミネートした手作りの案内板で、2008年当時のもの。今は前回記事掲載写真のような立派な木材の標示板に換えられている。中央写真は、防蕃碑が佇む舞台状の平坦地、碑の正面は舞台外を向いており撮影者側に見せている面は裏側。右写真は、同碑の正面を斜めから撮影、碑の袂は土手になっているので脚立とか持ち込まない限りこの角度が精一杯。下掲写真は、同碑正面の篆額(てんがく)。いずれも2008年当時。現在同地には木製の豪華なテラスが設置され、且つ、防蕃碑のレプリカも立つ。

<獅仔頭防蕃碑>
さて、筆者自身が最初に体験すべき隘勇線として獅仔頭山を選んだのは、前述の山岳雑誌に紹介されていた「防蕃碑」の写真が切掛けだ。

「防蕃」という言葉にはそれまで馴染みがなかったのだが、その後、森丑乃助の講演録(註)の中の、どのようにして原住民の間に銃火器が入ったかを語る下りの中で見付けた。

獅子の頭を登り切って獅仔頭三角点に向かわずに南側の稜線を暫く辿るとちょっとした広場になっており、その広場の隅に「防蕃碑」は佇んでいた。通常紹介されている碑の写真は碑の裏側(表碑文に因む犠牲者名が刻まれている)から撮影したものだ。これは碑が立っている場所がちょっとした土手脇にあり碑の正面側は撮影出来ないからだというのが現地に行ってみて判った。

その碑の全文は句読点無しの漢文で、高校生程度の漢文の知識ではとても読めそうにない。幸い、台湾のネット上で公開されている山行記録には句読点を施した上で紹介されている。この「防蕃碑」という碑名並びに碑文から、日本の台湾領有後の隘勇線の基本的な性格が読み取れる第一級の資料なので、筆者の拙い読み下し文で以下全文を紹介する:

台湾総督府警視総長正五位 大島久満次ノ篆額(てんがく)

獅仔頭嶺以南ノ平広坑一帯の地、曽(かつ)テ凶蕃狩猟ノ区二シテ民人輒(すなわ)チ入リ難キ也。明治三十五年十二月、台湾採脳拓殖合資会社、允准(いんじゅん)ヲ得テ製脳ヲ始メ、此ニ於テ官議定ニ因リテ隘勇線ヲ拡張シテ之ヲ保護ス。乃(すなわ)チ明クル年二月一日起工ス。爾来(じらい)榛莽(しんもう)ヲ披(ひら)キ、巨木ヲ倒シ、高嶺ヲ越エ、深谷ヲ跨ギ、線状ノ蜿蜒(えんえん)ナルコト恰(あたか)モ長蛇ノ延ビルガ如クニシテ六里ニ亙(わた)ル。七月二十日ヲ以テ竣工ス。此ノ間ノ董事者ハ深坑庁警務課長永田網明、景尾支庁雨田勇之、其ノ他警部補五人、巡査五十七人、巡査補五人、隘勇二百人、他庁ノ応援巡査二十人ナリ。日ヲ閲(けみ)スコト一百七十、風雨二餐宿シ、瘴癘(しょうれい)ハ日二侵シ、崎嶇(きく)二来往シ、蕃害ハ屡(しばしば)迫リ、終(つい)二能(よ)ク成ルヲ得タリ。嗚呼(ああ)彼ノ勇進困厄(こんやく)ノ裡(うち)二在リ、戦歿、負傷、或ハ並ビニ死スル者ハ、今日ヲ親睹(しんど)セザルト雖モ亦(また)其ノ志ヲ遂ゲタリ。故ニ其ノ職ト姓名ヲ碑陰ニ録シ永ク茲(ここ)ニ誌(しる)スモノナリ。

明治三十六年八月二十日 深坑庁長從六位勲六等 丹野英清撰並ビニ書

(碑文拙註)
「大島久満次」:第五代佐久間左馬太総督下の民政長官、神奈川県知事、衆議院議員も歴任、永井荷風の叔父に当る。尚、同人撰の「枋橋建学碑」が台北県板橋国民小学校に現存する。
「榛莽」:草木の生い茂った様。
「允准」:許可。
「採脳」・「製脳」:樟脳生産。
「瘴癘」:風土病等。
「崎嶇」:道などが険しい様。
「親睹」:よく見るの意。

当時の総督府の政策上は、その後「防蕃」が直に「理蕃」に変遷し、防蕃=隘勇線、理蕃=理蕃道という風に台湾古道の歴史的背景を便宜的に説明出来ると考えられる。物理的には、前者が山々の稜線を結び、後者は原住民の村々を繋ぐということになる。

以前「台湾の声」(そしてこの古道ブログ)で台湾南部の「六亀特別警備道」を紹介したことがあるが、獅仔頭山隘勇線を歩いてみて判ったのは、実はこの六亀の古道は「警備線」と呼ぶべき隘勇線が前身だったのではないかということで、その古道の沿線の案内板で見掛けた隘勇線という説明は成る程正しかったということに新ためて思い当たった。従って、東海道五十三次の名を冠したのは当初は駐在所ではなく隘勇監督分遣所に相当するものだったはずだ。>(メルマガ「台湾の声」2008年6月21日掲載分の一部を改編)次回へ続く...

(註)所収されているのは、「幻の人類学者 森丑之助」(楊南郡著、風響社、2005年7月30日発行)。同書143〜144ページに、「蕃人の銃器観」のタイトル下、以下の記載あり:
「(中略)其後支那人が段々山奥へ進んで行って樟脳を採り、又は伐木を為す道を開く。それに対する蕃人の凶暴を防ぐ為に、即ち防蕃の為に彼等が銃器を携帯して生蕃を防御して居った時代にも、其銃器なるもの、威力を恐れて、蕃人等が敢て手を出さなかったと云うことでありました。(中略)」


Kodou-1067.jpg
ラベル:台湾 台湾古道
posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 新店獅仔頭山古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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