2007年01月30日
浸水営古道−9
【写真説明】私が浸水営古道を東側から辿ったのは2006年1月、丁度この日新しい吊橋がチアチアカトアン渓に掛かった(左写真)。現在の古道への実質的な入口であり、今はここまで車の乗り入れが可能になっている。この新しい橋の対岸に日本時代の橋桁が残っており(写真右)、逆光で読みにくいが左側橋桁に「大正十五年三月竣効」(1926年)とある。右側の橋桁には恐らく「姑仔崙橋」の銘があったと思われるが、判読出来ない。
意図したわけではないが、この新旧二つは正に満八十年を隔てていることになる。実際は、林務局の案内板に拠ると、初代吊橋は大正六年(1917年)創建、その後の台風に拠り、現存している橋桁を新たに敷設した。つまり、「大正十五年」のものは二代目ということになり、三代目の戦後創建の橋桁も同位置に残存する。私が入山した時に完成したのは四代目ということになる。
私がこれまで見てきた台湾山中の吊橋の遺構から察せらることは大正年間に集中的に敷設されたのではないかということである。山深く分け入れば、日本時代の吊橋遺構は相当数残っていると思う。但し、今回紹介したように新旧の橋遺構を同時に観察出来る場所はそうそう多くないのではないかとも考える。日本時代のもと戦後のものを比べると、たかだか橋桁ではあるが、シビル・エンジニアリングの違いをまざまざと見せ付けられる。日本人は明治維新以来僅か五十年程でよくぞ外地の建造物に「風雅」なデザインを落し込める程に匠(たくみ)であったことに驚嘆する。(終わり)
この記事へのトラックバック
母は高砂族の人と交流をもっていたようです。竹の子を山の中に取りに行ったり、川で魚を捕るのも見たそうです。戦後帰国する時には、川原で牛を一頭さばいてご馳走をしてくれたらしいです。台湾のどの住所か詳しく今のうちに聞きたいと思っています。父95歳、母91歳なので今のうちですね。今日は仕事で忙しいので土日に詳しく読ませていただきます。両親にも印刷して見せようと思います。ありがとうございました。
わざわざコメント有難うございました。その通りですね、ご両親が具体的にどの辺りに住んでおられたのかが判れば私も或いはコメントなり私自身の体験を紹介できるかもしれません。ブログの方は今は諸般の事情で週一回更新していくのがやっとですので、まだまだ紹介できていない部分は沢山あります。今後とも宜しくお願い致します。(終)