【写真説明】左写真は、西側、獅尾登山口からすぐの古道の様子。中央写真は東側、獅頭登山口、まず写真に写るような石段の坂を上がると、観獅坪と呼ばれる広々とした平坦な草原に出る。そこから獅子の頭部が起立している。土砂降りで霧が掛かり獅頭の写真は撮れず仕舞い。右写真はその頭部を攀じ登るのに掛けられた梯子、獅仔頭山の名物である。左写真は2012年、右二枚の写真は2008年に撮影。
<隘勇線(あいゆうせん)>
以前「台湾の声」に投稿した記事の中で簡単な隘勇線の説明を加えたことがある。その際の説明を繰り返すと、隘勇線とは清代の「開山撫蕃」下に於ける平地人と原住民族の居住区を区別する為の隘(勇)制を引き継いだもので、日本時代は原住民族に対する包囲線・封鎖線へと変遷、物理的には山中百五十メートル幅で草木を払い、道路を通し鉄条網を張り巡らし、更にその鉄条網に電流を流し原住民の「隔離」を図ったものだ。
筆者の理解では、現在台湾で古道と呼ばれているものの大部分の最終形態が日本時代の原住民族に対する「理蕃道路」だったというものだが、実際は「理蕃道路」の初期形態は隘勇線だったはずだとも考えていた。
台湾のネット上で公開されている山行記録を見ていると、現在でも隘勇線を中心に山歩きをしている方がいるが、それらの山行記録を掻き集めてみても、では具体的に隘勇線が何処からどう延長されていったのかが全然見えて来ない。
当時、現在の宜蘭市から西に向かい新店市辺りから南下しそのまま中央山脈西側を貫き、墾丁国家公園のある恒春半島一帯まで「蕃界」(一般住民と所謂生蕃居住地との境界線)が引かれその東側を蕃地としていた。この蕃界境界線そのものが隘勇線で、その総延長は五百余キロだという解説を見たことがあるが、では現在はどのような形になっているのか、というのが筆者の素朴な疑問だった。
そんな時、昨年暮れに発刊された台湾唯一の山岳雑誌「台湾山岳」の別冊を見ていたら、四本の隘勇線が地図上に示されており、環烏来山脊と称される新北市の山々を中心とした稜線伝いの山行コースが、実はそのまま当時の隘勇線の一部であることが判った。これらの山々は新北市烏来区を囲むようなイメージで考えればよく、通常は烏来タイヤル族、正式にはスコレック群マレパ系タイヤル族の居住地に当るようだ。それら四本の隘勇線は各々名前が付けられているが、総称して烏来隘勇線と説明されている。その山行ガイドの最初に紹介されているのが今回紹介する獅仔頭山だった。>(メルマガ「台湾の声」2008年6月21日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
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