【写真説明】六儀社営盤。林務局の案内板に拠ると兵士数30人の駐屯地。大漢山林道がこの営盤を貫く形で通っており、道路脇の両側(大漢山方向に左端の谷側と右端の山側:写真は山側に残る営盤)の藪の中に何の変哲もない石積みが残る。この営盤を谷側へ少し下るとオリジナルの古道跡が出現する。今は全く歩かれていないが、旧リキリキ社へ通じる道である。リキリキ社跡は、過去何度か別なルートから入り込もうとしたが果たせず、六儀社営盤を調べているうちに期せずしてこのパイワン族の旧村へ辿る手掛かりが掴めた。
オリジナルの古道沿線上の清軍駐屯地跡(「営盤」)は、西側起点から、石頭営、崁頭営、帰化門営、六儀社営、大樹前営、大樹林営(浸水営)、出水坡営、渓底営の八箇所を数える。これらは、既に道路、畑、果樹園等現代の生活空間にすっかり埋没してしまったもの、大漢山林道沿線に僅かに痕跡を留めるもの、現在の登山歩道沿線上にあり規模も大きく明確に残っているのものというように遺跡としての形態は様々なのだが、最初の石頭営を除けば林務局がこれらの遺跡の傍に案内板を設置、一般の人にもそれらの位置が判り易くなった。
営設営から既に130年ぐらい経っているので、実際残っているものは単に荒く積み上げられた低い石塁に過ぎない。では、その案内板まで行けば営盤を観察出来るかというと、これは相当難しい。まず、日本時代に営盤を襲って駐在所を設置した例(大樹前営、浸水営、出水坡営、渓底営)では、これら後代の建築物の石垣と混在しており専門家でなければ区別が付かないのが一つ、その他の例では藪、樹林の中に埋没しており、林務局もそこまでは親切にあらず、自分で見当を付けて捜し廻らなければならないというのがもう一つの理由である。それだけに探索、探検の妙味があっておもしろいとも言えるのだが。>(メルマガ「台湾の声」2006年3月6日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
2007年01月05日
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メイウェンティさんから教えてもらい
おじゃまさせていただきました。
台湾の景色の写真とても惹きつけられました。
知らないことばかりですが興味がありますので
ろいろと教えていただきたいと
おもってます宜しくお願い致します。
どちらのブログも楽しみにしています。
父親が以前山羊の罠を仕掛けるために太麻里から出発し、足跡を追いながら迷い込んだ老部落を、父親、友人と再び訪ねる話なのですが、旧リキリキ社もこんな所かなぁなどと想像しながら呼んでいます。
世界には何千年前の様子がわかるような遺物を残している民族もあれば、その時代に確実に生きていたにもかかわらず、その証がない人々もいます。でも、それらの末裔達は確実に今も生きています。
遺しえた人々と遺しえなかった人々との差はどのような結果を生むのでしょうか?
今は色々な方法で今のことを後代に残せます。これはどういう結果を生むのでしょうか?確かに情報が多いことは選択肢が増えて良いとは思うのでが・・・・・などと色々考えてしまいます。
別にこれは深刻に考えているわけではなく、「どうなんだろうなぁ・・・・」程度のものです。
まだまだ祖先の地に還ることができるということは、今でも山深い、つまり開発の手が入っていないということです。開発する為には、資本があることと資本投下に見合った収益性が上げられることが条件になりますので、資本基盤の弱いこれらの村々で今後大規模な開発が行われる可能性があるかどうかは私はよく判りません。又、原住民の土地利権、国立公園内の原住民の土地の扱い等々、開発を促す(或いは開発を阻害する)要因も考慮しなければならないかもしれません。いずれにしても、民族独自の精神性の継続の為に様々な活動を行っていますし、現在までの所、父祖の地は、山や谷という具体的な形で引き継がれています。
貨幣経済が山奥まで徹底的に浸透し自給自足生活がほぼ不可能、経済基盤が極めて脆弱なこれらの土地でどのように生きてくのが最善なのか?難しい問題だと思います。(終)
日本でも『過疎化』や『山間地の利用』などの言葉で語られますが、台湾ではそれに『原住民』という非常に重要な言葉が加わります。そこで、先月行った原住民の村で会った一人の男性のことが気になっています。彼は私が村の人達と話していた時、近づいて来て何かを言って離れていきました。昼前でしたが、彼は些か酔っていました。村の人は私に「彼には小学生の子供がいて、奥さんは亡くなった。」と言いました。
そんな彼が心穏やかな日々を送るということは、他の人たちにとっても納得の行く日々になるのではないかと思うのです。では、どうしたら良いか?放棄された畑があったからそれを使って・・・、あそこでできた農産物の加工をして・・・等々色々考えます。しかし、もしそれらがうまく行ったとしたら資本のある人が来て設けを攫って行くような気がします。だとしたら収入の道ではなく、子供達に自分の子供時代、これまでの経験を語るような活動をする。要するに、彼が自分に対して『必要とされている』ということを感じられれば良いのではないでしょうか。
こんなことを色々考えます。しかし、こんな素人の稚拙な考えは私自身が考えることを楽しんでいるだけで、彼等にとっては『そんなこと百も承知』のことなんでしょうね。
山で暮らすのを選んだ人もいるし、仕方なく山で暮らしている人もいるんでしょうね。その村で会った人の兄弟5人は全部桃園郷に住んでいるそうです。そのことをアミ族の友人に話したところ、「原住民は皆纏まって助け合って暮らさないと大変なんだ。」と言っていました。また、最近はミーナン人で退職後山で暮らしている人もいるようで、尖石郷のタイヤルの村で暮らしている元教員の夫婦に会ったことがあります。
どのように生きていくにしても、最後に良かったと思ってほしいです。
このエピソードは私がどこかで紹介したことがある(或いはメイウェンティさんにも話した?)のですが、参考までに。とある台湾の原住民部落の近くでの出来事。農薬散布用の噴霧器を背中にしょった或る原住民の老人がバイクに跨ろうとして転倒しました。私はその時或る山から下山してきてその傍を通り掛かったのですぐに助け起こしに行きましたが、後から台湾人の方も来ました。その台湾人の第一声が「彼、酔っ払っているんじゃない?」多くの台湾人が原住民は昼間から酒を飲んでいると考えていますし、もしそれが現実の一部だとしたら、悪しき行為だと考え、では何故そうなのか?までは考え到らないのでは?と考えています。
台湾の原住民族とアメリカ・インディアンが辿って来た道と今の経済的・社会的な情況は似通っているのではないか?と書いたことがあるので、それを勘弁に検証しようと考え最近以下の二冊の本を読んでみました:
*「アメリカ・インディアン史」(ウィリアム・ヘーガン著、西村頼男他訳、北海道大学出版会、1998年発行)
*「アメリカがまだ貧しかった頃」(ジャック・ラーキン著、杉野目康子訳、青土社、2000年発行)
どこの公立図書館でも置いてあると思います。「アメリカ・インディアン史」の方は訳がひどくて非常に読みにくいですが、長い間のヨーロッパ人とインディアンの抗争が実はイギリスとフランスとの代理戦争の様相を呈していたこと、その後の強制移住が恐ろしく狡猾に悲惨に広範囲に断行されていったこと等を了解出来ました。「アメリカがまだ貧しかった頃」は訳が秀逸なのでとても面白く読めました。大陸横断鉄道が出来始める1800年代前半までの新大陸の人々の生活が活写してあり、不思議と自分の育った頃が想起できるのですね、なんだ日本人の昔と変わらないではないか?という意味。発展、文化的という意味が、いい暮らしをして長生きできる、という意味であれば時間が否応なく解決してくれるかもしれませんが。(終)